2017年12月21日最高裁決定における
ハーグ条約及び同実施法の解釈について(1)
神川松井法律事務所
弁護士・ニューヨーク州弁護士 神 川 朋 子
第1 はじめに
2014年1月、日本は、1980年の国際的な子の奪取の民事上の側面に関する条約(以下「ハーグ条約」という。)を締結し、同年4月1日、同条約は日本について発効した。ハーグ条約が成立した1980年から40年近くが経過し、現在では100近い国が同条約の締約国となっており、現在までに先に締約国となった国々で出された多くの裁判例について、ハーグ国際私法会議が公開し、分析している[1]。これに対し国内では、同条約の発効から3年以上が経過するが、事件数が年間20件前後と多くないうえ[2]、下級審の決定が公開されていないため、同条約及び国内実施法の解釈をめぐる議論が深まらない状況にある。このような中で、ハーグ条約事件に関する初めての最高裁決定(以下「本決定」という。)が公開された[3]。本決定は実施法117条1項、子の異議と裁判所の裁量、きょうだい分離と重大な危険についての解釈、及び補足意見において裁判所がハーグ条約事件を扱う際の指針を示している。以下に本決定で示された解釈と指針について検討する。
第2 最高裁決定
1 実施法117条1項とハーグ条約
実施法117条1項は、子の返還を命じる終局決定が確定した後に、事情の変更により、その決定を維持することを不当と認めるに至ったときは、当該終局決定を変更することができると定めている。しかし、どのような場合に終局決定の維持が不当となるのか、またどのような事情が考慮対象となるのかについて、条文には何も記載されておらず、手がかりがない。
本決定は、返還先の子の監護養育態勢がもともと悪かったところ、それが看過しえない程度に悪化したことをとらえて事情の変更とした。本決定のみをもって117条の事情の変更の射程を推測することは困難であるが、少なくとも、予期しない出来事が起きた場合のみならず、当初の返還決定時に過少評価されていた危険が顕在化した場合も、事情の変更となると思われる。
117条1項と同趣旨の規定はハーグ条約に置かれていないが、他の締約国において返還決定後に返還命令の見直しをした裁判例が117条1項の解釈の参考となる。ハーグ国際私法会議は返還決定後に決定を見直した以下のような事例を紹介している。
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事例1
オーストラリアの裁判所は、米国へ返還を命じられた子が飛行機に乗ることを拒否した事案で、返還決定から3年後に、嫌がっている12歳の子を力づくで第一次監護者と別れることになる場所に返還することを妥当とするのは困難と判断した(HC/E/AU 864)。 -
事例2
英国の裁判所は、オーストラリアへの返還に対して子が飛行機のドアを開けようとして抵抗したため、子の異議のさらなる調査が必要として事件を高等法院に送致した(HC/E/UKe 56)。 -
事例3
英国の裁判所は、11歳半の子が返還されることを嫌がり飛行機に乗ることを拒否したため、返還決定時と大きく状況が変化し、子の意思を考慮するのが適当であるとした(HC/E/UKe 167)。
実施法117条1項は明文で変更を認めているその反面「事情の変更」があることを要件としているため、「事情の変更」の解釈次第では、他の締約国の実務よりも返還決定を変更ができる範囲が狭くなる可能性がある。上記事例のように子が返還に対して激しく抵抗していることを理由に、返還が妥当ではない、あるいはさらなる子の意思の調査が必要とされているが、返還実施時の子の抵抗は、実施法117条の要件である事情の変更となるのだろうか。
実施法立法時の議論では、117条の事情は、確定後に生じた事情に限定されるのか否かが議論され、客観的には裁判時に存在していた事実が裁判確定後に判明した場合は、基本的には変更の理由とならないが、新たに判明した事実を前提とすると当初の裁判を維持することが明らかに子の利益に反すると認められるようなときは、裁判の変更の制度の趣旨(子の利益の保護)を踏まえた解釈等によって、個別に救済する余地を否定するものではないとの考え方が示されている[4]。この考え方からすれば、確定前に見落とされていた事情や子の返還拒絶意思が明確化したことを救済の対象とする余地があるように 思われる。なお、一問一答[5]248頁には、子が終局決定が確定した後に返還を拒絶する意思を示すようになった場合については、子の意思は確定する前に十分に考慮されるものであるから、基本的には終局決定の変更の理由にはならないと記載されているが、この記載がどのような根拠に基づくものか不明である。同書は、子の意思は確定前に十分に考慮されるものであるということを理由にするが、十分に考慮すべきであるにもかかわらず、十分に考慮されなかった事案、あるいは、当初の決定時に子が意見を述べる程度に成熟していなかったが、その後子が意見を述べる程度に成熟して返還を拒絶する 意思を表明した場合に、返還決定を維持すべきかが問題なのである。
返還決定時の予想に反して、子が返還を拒絶する意思を明確に示して執行に抵抗したことが117条の事情の変更にあたらないとすれば、決定から何年経過していても子が16歳になるまで執行が可能となり、子は長く不安定な状態に置かれることになる。
返還決定が子の利益を目的としていることや、条約及び実施法が子の返還拒否を返還拒絶事由としていることから、子の抵抗によって執行不能となった返還決定を残しておく必要性は乏しい。どのような事情が117条の事情の変更にあたるかは、子の利益の観点から、事案ごとに子をとりまく事情や子の意思を検討して、柔軟に判断をすべきである。
次に、どのような場合に返還決定の維持が不当とされるかであるが、本決定が、子の異議、及び、重大な危険という条約および実施法に記載されている返還拒絶事由があることを理由に、返還決定を変更した高裁決定の結論を支持していることから、変更決定時に返還拒絶事由が認められれば、決定を維持することが不当となることがわかる。返還拒絶事由以外の事情で不当とされる場合があるのかは不明である。一問一答[6]248頁には、117条の事情の例として、子が重大な疾患を発症して日本で治療を受ける必要が生じた場合、申立人が長期にわたって収監されることになり、他に常居所地国で子を適切に監護することができる者がいない場合、常居所地国で内紛が勃発し治安が非常に悪化した場合などが挙げられているが、ここに記載されているような事情は重大な危険と整理することが可能である。以上より、条約に定められている返還拒否事由を子の利益という目的に従って解釈することで、変更が必要な事情はほぼカバーされると思われる。
[3] 最高裁決定平成29年12月21日 http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/
[4] 法務省、ハーグ条約(子の返還手続き関係)部会資料7、16頁 http://www.moj.go.jp/content/000080969.pdf
[5] 金子修編『一問一答 国際的な子の連れ去りへの制度的対応――ハーグ条約及び関連法規の解説』(商事法務、2015)
[6] 金子・前掲注[5]