◇SH3591◇中学生に対する法教育の試み―不法行為法の場合(3) 荒川英央/大村敦志(2021/04/21)

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中学生に対する法教育の試み―不法行為法の場合(3)

学習院大学法学研究科博士後期課程
荒 川 英 央

学習院大学法務研究科教授
大 村 敦 志

 

(1)(2)までで、第1回の授業の概要の紹介、外形的な観察まで終えた。続いて、内容上の観察に移る。

 

第3節 内容上の観察――不法行為法を教えるポイント

(1) 「民主主義社会」

 他人の名誉を毀損した者は不法行為責任を負う。このことは709条とは別に設けられた710条の規定から分かる。その救済の例外的なあり方もまた明文化されている(723条。損害賠償以外に、原状回復のための処分として謝罪広告、取消広告のほか、判決要旨の――あえて謝罪を含めない――広告が認められたケースもある)。また、これら明文の規定というより、刑法203条・203条の2をベースにして名誉毀損を一定の場合に免責する判例法理によって、名誉毀損は不法行為のひとつの類型をなしている。本セミナーのテーマに即して言えば、人びとは他人の名誉を傷つけてはならない義務を限定的に負っていることになる。

 主催者は、今回のゴーマニズム宣言事件の最高裁判決を、そのルールを一定の方向へ動かすものとして生徒たちに提示してみせた。同判決は、従来必ずしも位置づけがはっきりしなかった法的な見解は「論評」に当たると判断した。このことを主催者は、名誉毀損が成立する領域を狭める方向でルール変更がなされた面をもつと説明したことは記録しておいたとおりである。単純化して言えば、論評型では真実性ないし真実相当性を証明することが求められるのは論評部分が前提としている事実だけである。だから、その分だけ、他人の名誉を傷つけない義務が低減されたとも言えるからである。

 ここで注意すべきように思われるのは、言論の自由に対するスタンスが、平成16年判決(ゴーマニズム宣言事件判決)が直截に(高らかに?)打ち出したものと主催者のものとで微妙に異なるように思われる点である。同判決は、論評・意見について人びとの義務を低減する趣旨は、論評・意見を表明する自由が「民主主義社会に不可欠な表現の自由の根幹」であり、それを「手厚く保障する」ことにあるという。こう述べる判決のスタンスを正面から否定することはかなり難しいように感じられる。主催者もそうはしない。ただ、どのような論評が許されるかをめぐって生徒たちと対話するなかで次のように問いを定式化していた。

 

  1. 主催者:ちょっと前提っていうか、議論にひとつだけ枠をはめておくと、――なんていうのかな――、言論の自由っていうふうに言うときに、――もちろん自由あるんだけども――、なに言ってもかまわないとして、しかし、名誉毀損になりませんか、と。

 

 このような趣旨を含めて描かれた社会は、ある次元では「民主主義社会」と呼ばれうることは確かだとしても、主催者はもう少し違う次元を生徒たちに示そうとしていたように見受けられた。では、どういう次元で捉えたどういう社会なのかと言われれば、それに直ちに応えるのは記録係の手には余る。代わりにもう少し生徒たちと主催者の対話――記録ではその一部をすでに略記した――をひろっておく。

 

  1. 生徒K:法的な見解――裁判所の出した判決とかが論評だとしたら、罰則とか、判決によって下されるような責任とかを決めるような、裁判所の権力というか、その存在感がだいぶ薄くなってしまうのではないか、っていう問題があると思います。
  2. 主催者:うん。今の発言の趣旨は皆さん分かりますよね。判決が出た以上、この問題は、判決の考え方で、それで考えていくべきだ、と。[中略]たとえば民事の訴訟だと、判決に従わないときに強制執行できますよね、と。だけど、裁判所が下した判断について、それと違うことを言わせるか言わせないか、っていう問題がその先にあって。判決が出た以上、この問題についての解決が、いわば公権力によって確定されたのだから、それ以上そのことについて異をたてることはできない――そこまでの力を判決に認めますか、っていうことですよね。裁判批判できないの? っていう。

 

 他方で主催者は次のように問いかけ、生徒たちが考える幅をひろげようとした。なお、問題の構図や事実関係は捨象することにすると、ここでは「逆転」事件が念頭に置かれていたように思われる。

 

  1. 主催者:前の判決によって作られた状態が当事者の利益になっていて、それを承知しつつ、それとは違う法的な見解を述べることが、無制限に認められていいんでしょうか? を轢き殺した。過失致死ということになった、という話をしたんですけども、――なんでもいいんですけど――、「いや、無罪ですよ」というようなことになった場合に、いつまでもいつまでも「人殺しだ」というふうに言っていいんでしょうか、と。

 

 主催者の発話で、前者と後者では一見別の方向を向いているように取れなくもない。とはいえ、必ずしも両立しえないものでもない。付け加えておくと、あくまでも生徒たちへの問いかけが試みられたのである。ここから帰結するかもしれない、互いに他者の人格に配慮しあう(読みにくくなるが、2021年現在は、“配慮する”は、権力関係の文脈を暗示するように使われる“忖度する”も一応は含みうる、と書くべきように思われる状況にある)義務を負う社会を「民主主義社会」とだけ描くのでは、なにかが手からこぼれ落ちてしまうことになりそうである(かといって、それが“キレイキレイな”社会であることは意味しない)。換言すれば、今回のセミナーでは、平成16年判決を「表現の自由」と「名誉毀損」の調整、というかたちだけで取り上げる仕方(この仕方が問題になることを認めないわけではない)とはやや違った仕方で、名誉毀損、不法行為、それからこの社会で負いあう義務について考え直す途が生徒たちに示されることになったのではないかということである。

 次の2点もこの点にゆるやかに関わってくる部分がある。

 

(2)裁判所・裁判官・法律家・・・中学生

 (1)で再現した後者の問いかけは、対話の総括のなかで行われた。少し時間を巻き戻して、もとの問いかけ(判決と違うことを言い続けていいのか?)に対する生徒の応えに戻って、すでに記録したものから、ここで考えたい部分だけを切り出してみる。

 

  1. 生徒N:はい。たぶん言い続ける権利はあると思うんですけど、轢いた側が裁判所に、轢かれた側が「あれは殺人だ」って書いた本とかブログとかを削除するように要請したら、たぶんブログは消されると思うんですよね。
  2. 主催者:で、名誉毀損で訴えても、それは認められないの?
  3. 生徒N:――名誉毀損?[以下略]

 

 このあと主催者からは、訴訟で民事上の名誉毀損が成立し出版差止めが請求されたら、それは認められるのかが問われ、この生徒も、バトンを引き継いだ生徒も、対話を続けられなかったことはすでにふれた。

 上の対話の生徒の最後の発話からは、ここで話題になっているのが名誉毀損であるという意識が乏しいことがうかがわれる。付け加えておくと、この生徒は対話のなかで、“名誉毀損以前に”、判決と違うことを書いた本が出版され続けブログがネットで残されることを裁判所は認めないだろう、と述べていた。本セミナーでは必ずしも正確な法律構成や現実の司法手続きの理解は求められていなかったと思われる。いずれにせよ、最初の発話には中学生が捉えたこの社会での“義務違反”の帰結が現れていると考えてもそれほど的外れではないだろう。

 中学生たちは、これまでの法的処理――これについては主催者がリードして説明されていった――とは別ルートで、意見や論評が社会から退場を強いられる現状を感得しているのだと思われる。生徒Nが裁判所を通したルートも想定し、また、本の流通制限に言及していることは確かである。他方、彼が結論的に述べる後半部分に移るにつれて、SNSを提供する事業者等が司法手続きとは別に社会規範の形成に関わっている現状が前景に出てくるようにも見受けられる。それが司法手続きとどのような関係に立つことになっていくのか――新聞での謝罪広告や出版差止めが名誉の原状回復にとって適切な処分であり続けるか等も含めて――、それは今後の展開に俟つしかない。

 ただ、この点に関わって指摘しておきたいのは、その認識の根底あるいは周辺に、中学生たちが規範をめぐる判断を裁判所に委ねようとする、ある程度共通した姿勢が垣間見られたことである。記録に残したふたりだけでなく、判決と違うことを言い続けても「問題はそんなにないんじゃないかな、とは思います」と慎重な口ぶりで述べたもうひとりの生徒も、さらに注意深く次のように付け加えていた。「もし裁判所の判決は、それは意見にすぎないとか、そういうのが認められるのであれば」と。

 今回の平成16年判決が言及した平成9年判決(いわゆるロス疑惑訴訟夕刊フジ事件判決)では、「事実摘示型」か「論評型」かの区別について、一般の読者を基準に判断するとされていた。平成16年判決はこの部分にふれていない。また、意見・論評を「証拠等による証明になじまない物事の価値、善悪、優劣についての批評や論議など」と積極的に性格付けたことは主催者から説明されたとおりである。平成9年判決の考え方は事実摘示型に当てはめる判断に限ってのものと考える余地もある。

 ともあれ、――中学生が「一般の読者」と言えるかに疑問はありうるが――、彼らにとっては、法的な見解を単なるひとつの意見にすぎないとみなすのは、必ずしもすぐに受け容れられるものではなかったように見受けられた(そうみなす立場に立って、考えを進めること自体は容易にできたようには見受けられたけれども)。そうだとすると、後半終了後の最初の質問Q1は、この延長で、やはり「判決は事実のほうに当たる」という考えは捨て難い、――そうした考えの側から実際に訴訟は起きていないのだろうかと訊ねた趣旨のようにも思われる。だが、はっきりしない。対話のもう少し前を補っておく。

 

  1. 生徒Q:裁判の判決っていうのは論評行為に当たるっていう判決が出た、というのを今回扱ったと思うんですけど、その判決がもとになって新しい論争を生んだ事例っていうのは実際にあるんですか?
  2. 主催者:新しい論争を生んだというのは、どういう場合を想定してるの?
  3. 生徒Q:裁判の判決が事実であるから、この判決は妥当じゃない、とかっていう訴えが出た、ってことはあるんですかね?

 

 ここからさきは記録に残しておいたとおりである。主催者は言い換えるように「事実でないから、この判決は妥当でない、という訴えが出た、と。」(これが言い違いを含むかもしれないわけである)と述べ、対話が続いた。はっきりしない、というのは、生徒が主催者による問題設定に異を挟むことなく対話が進んだからである。仮にここにズレがあったとすると、裁判所の判決はひとつの意見にすぎないという考え方にやや違和感をもったままだった可能性もあるように思われる。

 これはこれでひとつの見識ではあろう。ここと、(1)でふれた裁判所とその「論評」の性質とを緩やかに結びつけることが許されるなら、生徒の考えは少なくとも次のふたつの要素に分けられるように思われる。①裁判所の見解にはそれだけで特別な地位をみとめるべきではないか、ということ。②裁判所の見解が刑罰を科し、義務・責任を負わせるという帰結のレベルを考慮すべきではないか、ということ。②の点からは、一括して「論評」とされた裁判所の法的判断について、その帰結レベルでの意味合いに応じた取扱いをする余地はないのかも検討されてよいのではないだろうかと思われる。

 いずれにせよ、主催者が述べたように事実性と評価性を捉えるなら、事実性の部分、または、評価性の部分が切り出されることによって、法律家を中心とした不断の再評価によって、ルールの形成・再形成が進められていくことになるのかもしれない。

 

(3)「論評」と「論評が前提としている事実」とのあいだ

 セミナーに参加した中学生たちは、論評とそれが前提としている事実との関係にこだわりをみせた。ここにこだわりつつ、生徒たちは裁判所が積極的に推論の合理性を求めることにも、推論の不合理性を否定することにも慎重な態度を選び採っていたことは、記録しておいたとおりである。

 この点、意見・論評については、原則としては、仮にそれが他人の名誉を傷つけるものであっても、意見・論評の域を逸脱しない限りは免責されうると考える立場がある程度ひろく認められているように思われる。他方で、意見・論評についても、実際にはなんらかのかたちで事実との「調和性」は判断されていると捉える考え方もないわけではない(「合理性」・「正当性」の語は避けておいた)。記録に残しておいたように、後者の考え方はたとえば次のような趣旨の生徒のことばにも見いだせるように思われる。「確かな因果」がなければ「根拠となっている」とは言えないのではないか。これも表現の違いはあれ「前提としている事実」という文言の意味に敏感裡に言及しているように思われる。

 具体的にはE厚生労働大臣の政治家としての能力と中学時代の生物の成績の関係をめぐる別の生徒と主催者のあいだの次の対話もこの点に関わる。生徒が中学時代の成績は「時効」だから名誉毀損になる、と表現したのを受けて主催者は次のように続けた。

 

  1. 主催者:それ、推論がオカシイということなのか、いや、それ、公共の事柄・公益に関する事柄……――まあ、公共に関する事柄かな――、そっちじゃないんだ、って、そういう話かな? E君、50歳で厚生労働大臣になったとして――35年前の生物の話は関係ないよね、っていうのは、どこで弾くのかな?

 

 公共性・公益性あるいは前提性が時効にかかることはないのだろうか(前者に関してはいわゆる「時の経過」の法理が議論されてきた。なお、ここで時効は法学的な意味では使われていないし、記録しておいたように、モデレーターから名誉毀損で問題になる公共性・公益性は事実のそれではなく表現行為のそれであると指摘されていく)。

 今回の最高裁判決は、論評型なら「その内容の正当性や合理性を特に問うことなく」免責されうることを、「民主主義社会に不可欠な表現の自由」と関わらせて述べていた。この「その内容の……」の部分は論評自体に言及しているように思われる一方で、「論評」と「論評が前提としている事実」との「関係」に言及しているようにも読めなくもない。このように考えることが許されるなら、(1)でふれたような仕方でルールについて考えていくとき、その「関係」についてもう少しだけ立ち入って考える余地もあるように思われる。もっともそのルールが裁判で適用されるとまで想定する必要はないのかもしれない。

 中学生がこだわった、論評と事実のあいだの関係をめぐって、主催者とモデレーターのあいだで交わされたやり取りからは名誉毀損の判断枠組みを見直すひとつの方向が示されていた。仮に論評と事実の関係について考慮することが必要だと考えるとして、その考慮を必要とするかたちで名誉毀損の成否が問題になる場面があるとすれば、判例では比較的容易に認められてきた公共性・公益性の要件についての判断に影響を及ぼすのかもしれない、とのことであった。

 他方、他人の名誉・人格に配慮する義務をめぐって、主催者の説明と中学生たちの対話のなかからも示されたものも含め、いくつかのレベルで同時的・複合裡の変化が起きているとしたら、そこから不法行為法の理解に資する問題が現れてきたように思われた。名誉毀損についての判例の判断枠組みについて批判的検討がなされていくなかで、名誉毀損が今回の判決でも使われた判例法理でしか扱われないとしたら、法的に保護されてよい利益が十分に護られていないこともあるのではないか――あるいは、判例法理が守ろうとするものと主催者が描いたように思われる社会のはざまで見落とされていくものはないのか――、その判例法理が維持されなければならない理由はなんなのかを考えることも検討されてよい問題として示されたのではないか、ということである。

 表現の自由がホワイトで塗りつぶし尽くしてしまうかのようにみえるとき、そこに熟慮を要するいくぶんかのグレーの領域を再び見いだす必要が出てくることになるのかもしれない。

(荒川英央)

 

第4節 コメントへのリプライ

 荒川氏によって精密に整理された授業内容と外形・内容双方にわたるコメントを読んで感じたことは多岐にわたるが、ここでは以下の4点にまとめる形で感想を述べておきたい。

 第一は、「事実」とは何か、ということにかかわる。荒川氏は「『事実ではないから』というときの『事実』は必ずしも論評との対立で決まってくる意味では使われていないようにも見受けられる」と指摘している。この指摘の意味は必ずしも判然としないが、おそらくは授業の焦点(のずれ)を言いあてている。私自身は、「事実」「論評」の区別が相対的なものであること、より具体的には、厳密な意味での「事実」は少なく「論評」ではなく「事実」とされているものの中にも(法的)評価を含むものがあることを意識する必要があるという点を強調したつもりだが、改めて記録を読み直してみると、参加者が「事実」という場合には何らかの「論拠」を示しているように思われる部分が散見される。たとえば、荒川氏が特筆している「ある意味動機のようなもの」への言及もその一例である。荒川氏が感じたように、参加者には私の問題意識は必ずしも十分には伝わらなかったかもしれない。「事実」という言葉は、当事者が定立した規範である契約法に比べると事実の世界に近い不法行為法を語る上で重要な意味を持つが、この点については第2回分についてのリプライにおいて再説したい。

 第二は、裁判所の権威との関係について。荒川氏は、裁判所の判断は「事実」として扱わないと「裁判所の権威」にかかわるという発言を取り上げて、発言者と主催者(私)の間の「対話のすれ違い」を指摘した上で、「中学生たちが規範をめぐる判断を裁判所に委ねようとする、ある程度共通した姿勢が垣間見られた」として、課外で出された質問(Q1)もこの見方と結びつけている。さらに、裁判所の判断をすべて「論評」とするのではなく「事実」とする可能性はないかを論ずることが必要ではないかとの見方も示唆している。判例の立場が名誉毀損を狭めすぎてはいないかという観点に立つとすれば、これは「論評」の過程を制御するというアプローチとならぶもう一つのアプローチであろう。

 第三は、「忘れられる権利」と公共性・公益性について。より広く名誉毀損を認める方策はほかにも考えられる。それは公共性・公益性を否定するというアプローチである。授業では、この点は参加者が挙げた設例から発して、ある政治家の中学時代の成績(過去の事実)と現在の職務とを関連づけることは合理的な議論と言えるかどうか、遠い過去の事実はもはや論拠にならないのではないかが議論されるなかで話題になった。荒川氏が記録しているように「時効」という言葉が使われたが、それは一方で合理的関連性の不在を主張するものであるとも言えるが、他方、人は過去について「忘れられる権利」を持っているという考え方と通じるところもある。現在から過去へと時間を遡るにつれて、過去の事実は現在との関連が乏しくなるのであり、その意味でその事実を指摘することを公共性・公益性に包摂するのが難しくなるというわけである。予想外の展開であったが、改めて記録を読み直してみると、そこには検討すべきものが含まれているように思われる。

 第四に、いかなる「(民主主義)社会」を構想するかに関する指摘が重要である。荒川氏は「民主主義社会」という項目を立てて、平成16年判決と主催者との間に見出される「言論の自由」に対するスタンスの差を検出しようとしている。荒川氏は、「ただ、事件を解決することがすべてだろうか?」、それだけでなく「それ(その解決)が前提としているルールが持っている世界観・社会観がわれわれにとってよいものなのか?」という問うことも「法律家」の役割であると、私が述べたのを受けて、このような問題を提起している。この点について私は何を明示的に述べたわけではないが、私の発言に即した形で授業を観察しており、私が十分に言語化しなかった点が補完されている。もっとも、論点(あるいは考慮すべき価値)は一つではなく、たとえば、裁判による紛争解決の実効性と裁判批判に対する開放性という緊張関係にある要請を考慮すべきではないかという問いが暗黙裡に発せられていたという趣旨のまとめがなされている。

 

 1回目の授業については以上の通りである。次回・その4では、2回目の授業に移りたい。

(大村敦志)

 

 

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