給与デジタル払いの実現に向けて
アンダーソン・毛利・友常法律事務所外国法共同事業
弁護士 池 田 彩穂里
2017年に国家戦略特区ワーキンググループにおいて、ペイロールカードへの賃金の支払い(いわゆる「給与デジタル払い」)を可能にする規制緩和が提案されて以来、厚生労働省を中心に、資金移動業者への賃金の支払いについての議論が進められている。
ペイロールカードとは、給与の振込先として機能するカードのことをいい、諸外国では銀行口座を開設することなく、当該カードのみで電子決済や送金、現金の引き出しに利用されているものである。資金移動業者が発行するプリペイド方式のペイロールカードを賃金の支払先として指定し、当該ペイロールカードを資金移動業者が提供する決済サービスと結び付ければ、銀行口座から決済サービス上の口座に資金を移動させなくても電子決済や送金等が可能となるため、日本では当初、銀行口座の開設が難しい外国人労働者による利用を企図して提案された。しかし、2021年現在、PayPayやLine Payといった電子決済が広く普及し、キャッシュレス化が進められているため、外国人労働者のみならず日本人労働者にとっても利便性をもたらすものとして、注目が集まっている。
以下では、給与の支払いにかかる法的枠組みや、給与デジタル払いの検討が進められている労働政策審議会労働条件分科会(以下「分科会」)における議論に触れつつ、制度化に向けて検討されるべき事項を整理する。
1 賃金の支払いにかかる法的枠組みと給与デジタル払いの課題
給与支払いは、「通貨で、直接労働者に、その全額を支払わなければならない」(労働基準法24条)と定められている。給与デジタル払いは、この要件のうち、「通貨で」とされている部分(いわゆる「通貨払いの原則」)と、「直接」とされている部分(いわゆる「直接払いの原則」)に抵触し得る。通貨払いの原則は、貨幣経済の支配する社会では最も有利な交換手段である通貨による賃金支払いを義務付け、これによって価格が不明瞭で換価にも不便であり弊害を招く恐れの多い実物給与を禁じたものである[1]。また、直接払いの原則は、親方や職業仲介人が代理受領によって中間搾取をし、または年少者の賃金を親権者が搾取するといった旧来の弊害を除去し、労務を提供した労働者本人の手に賃金全額を帰属させることを目的としたものである[2]。
銀行口座や証券口座への振込みによる賃金支払いも、この通貨払いの原則と直接払いの原則と抵触するものではあるが、「労働者の意思に基づいているものであること、労働者が指定する本人名義の預金又は貯金の口座に振り込まれること及び振り込まれた賃金の全額が所定の賃金支払日に払い出しうること」の要件を満たす限り、本条に反しないと解されて、労働基準法施行規則7条の2により明文化された[3]ことにより、現在では給与支払いの主たる手段となっている。
こうした銀行口座や証券口座への給与支払いと給与デジタル払いとの相違点はどこにあるのか。それは、支払われた給与の換金性、当該口座を管理する資金移動業者の破綻リスクおよび不正利用対策が、銀行口座や証券口座と比較すると万全とはいえないことがあげられる。
まず、銀行口座や証券口座に振り込まれた給与は、即日、ATM等から現金で引き出すことが可能であるが、資金移動業者が提供する決済サービス上の口座からの現金の引き出しは、提携先店舗や提携金融機関にて可能なケースもあるものの、銀行口座に送金後、当該銀行ATM等での引き出しが予定されているものもあり、各業者により取扱いが異なっている状況である。
また、銀行口座や証券口座を管理する金融機関が破綻した場合には、破綻に備えた預金保険制度が整備されており、預金は元金1000万円まで保護される。これに対して資金移動業者も、資金決済法に基づき一定額を供託することが義務付けられている。しかし、給与振り込みとなると現在の取扱額とは格段に利用額が増加することが想定されるところ、破綻時に当該供託金で十分な保全が可能か、疑問が残る。さらに、利用者の手元に払い戻しが行われるまでに半年程度を要するとされている点でも、不安が残る。
最後に、既存の銀行口座と異なり、不正利用の対策が十分かという点も疑問が残る。実際に、2020年に電子決済サービスであるドコモ口座の不正利用が相次ぎ、分科会における給与デジタル払いの検討もいったん停止されていた。
2 分科会における議論
従前、分科会では、以下の図のように、金融庁が監督する資金決済法令に関するものと、厚生労働省が監督する労働関係法令に関するものの2段階に分け、議論が進められてきた。
(第168回労働政策審議会労働条件分科会資料No.1 17頁から引用)
1階部分では、現行の資金決済法等に基づき、利用者の保護および資金移動業の適正かつ確実な遂行の観点から、資金移動業者にどのような規制が課されているのかの整理がなされていた。
そして、2階部分では、現行の資金決済法等に基づく規制を前提に、賃金の確実な支払いを担保する上で、労働関係法令においてどのような要件を付加するべきか、検討することが想定されていた。
しかし、2021年3月16日の分科会で、労働者側の日本労働組合総連合会(いわゆる「連合」)から、以下の問題点を検討するためには、2階部分のみならず、金融庁の監督も含め、1階部分についても検討がなされるべきとする指摘があった[4]。
- ⑴ 資金保全
- ⑵ 不正引出し等への対応・個人情報の取扱い
- ⑶ 換金性
- ⑷ 労働者の同意・企業の賃金支払事務の取扱い方法(破綻時の補償の受け取り方法等の説明を含む)
- ⑸ 厚生労働省による監督指導(資金移動業社への監督体制)
上記1で述べたとおり、給与デジタル払いの実現に当たっては、支払われた給与の換金性、当該口座を管理する資金移動業者の破綻リスク、そして不正利用対策を確実に行うことが重要な課題となることが想定されるところ、こうした対応を厚生労働省のみで行うことが可能なのかも合わせて検討する必要もあると考えられるため、上記の労働者側からの指摘はもっともなものであると思われる。
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(いけだ・さおり)
アンダーソン・毛利・友常法律事務所外国法共同事業パートナー。2005年東京大学法学部卒業。2007年東京大学法科大学院卒業。2008年弁護士登録(所属弁護士会)。2015年UCLA・ロースクール(LLM)修了。2017年ニューヨーク州弁護士登録。主な業務分野はコーポレート、労働法及びライフサイエンス。
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<事務所概要>
アンダーソン・毛利・友常法律事務所外国法共同事業は、日本における本格的国際法律事務所の草分け的存在からスタートして現在に至る、総合法律事務所である。コーポレート・M&A、ファイナンス、キャピタル・マーケッツ、知的財産、労働、紛争解決、事業再生等、企業活動に関連するあらゆる分野に関して、豊富な実績を有する数多くの専門家を擁している。国内では東京、大阪、名古屋に拠点を有し、海外では北京、上海、香港、シンガポール、ホーチミン、バンコク、ジャカルタ等のアジア諸国に拠点を有する。
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