◇SH3944◇北京2022オリンピックCAS事例報告――CASオリンピック仲裁の概要からワリエワ事件まで(4) 宮本聡/細川慈子/簑田由香(2022/03/18)

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北京2022オリンピックCAS事例報告

―CASオリンピック仲裁の概要からワリエワ事件まで―(4)

弁護士法人大江橋法律事務所 東京事務所

弁護士 宮 本   聡

弁護士 細 川 慈 子

弁護士 簑 田 由 香

 


  1. Ⅰ.CAS AHDについて(2022/03/15)
  2. Ⅱ.北京2022オリンピックのCAS AHD事例(総論)(2022/03/16)
  3. Ⅲ.北京2022オリンピックの個別事例①:ROCモーグル選手のワクチン接種に起因する出場枠の割当事件(2022/03/17)
  4. Ⅳ.北京2022オリンピックの個別事例②:ROCワリエワ事件(2022/03/18)
  5. Ⅴ.北京2022オリンピックの個別事例③:フィギュア団体表彰式事件(2022/04/13)


 

Ⅳ 北京2022五輪の個別事例②:
  ROCワリエワ事件(CAS OG 22/08-22/10)

1 事案の経過

 Kamila Valieva(カミラ・ワリエワ、以下「競技者」という。)は、15歳のロシア人フィギュアスケーターで、ROC[6]のメンバーとして北京2022オリンピックに出場していた。競技者は、2022年2月7日、フィギュアスケート団体に女子シングル・フリーの選手として出場し、ROCの金メダル獲得に貢献した。しかし、同日、競技者は、スウェーデンにあるドーピング検査機関(以下「本件機関」という。)より、ロシア国内の大会に際し2021年12月25日に提出した尿検体(以下「本件検体」という。)から非特定物質(類型的に競技力向上またはドーピング隠ぺいのおそれのある物質)であるトリメタジジンが検出された旨の通知(以下「本件通知」という。)を受けた。本件機関は、同月29日に本件検体を受け取っていたが、コロナ禍での人員不足により、結果の報告が遅れたと説明した。

 2022年2月8日、Russian Anti-Doping Agency(以下「RUSADA」という。)は、競技者等に対し、競技者を暫定的資格停止処分とする旨を通知した。もっとも、RUSADAは翌日9日、競技者からの申立てにより暫定聴聞会を実施し、暫定的資格停止処分を取り消した(以下「本件取消処分」という。)。

 競技者は、2022年2月15日および17日開催のフィギュアスケート女子シングルに出場予定であったため、暫定的資格停止処分が課されるかどうかは、競技者の出場可否を左右する判断であった。

 本件取消処分を受けて、2022年2月11日ないし12日、IOC、World Anti-Doping Agency(以下「WADA」という。)、およびInternational Skating Union (以下「ISU」という。)は、それぞれCASに対し、本件取消処分を破棄し、競技者を暫定的資格停止に処すること等を求めて不服申立てを行った。CASは、IOC、WADAおよびISUを申立人とし、RUSADA、競技者およびROCを相手方とする形で、これらの事件を併合した上で、同月14日、以下のとおり判断した。

 

2 判断要旨

 本件で適用されるべき原則的な基準は、All Russian anti-doping rules(以下「R-ADR」という。)9.4.1項および9.4.3項に見られる。9.4.1項は、非特定物質について違反が疑われる分析報告があった場合、暫定的資格停止処分が直ちに課されることを規定し、また、9.4.3項は、当該違反について汚染物質が原因である可能性が高い旨立証するか、当該違反が濫用物質に関するものであり、12.2.4.1項に基づいて資格停止期間が短縮される権利がある旨を立証することによって、暫定的資格停止処分が取り消されると規定している。

 競技者は、16歳未満であり、R-ADRの定義上、要保護者(Protected Person)に該当する。世界アンチ・ドーピング規程(World Anti-Doping Code)(2021年版)(以下「WADC」という。)は、10以上の規定において、要保護者について特別な規定(立証責任や制裁の軽減等)をし、WADCが、要保護者に対し、特別な取扱いを意図していることは明らかである。このように、要保護者に対し、証明の程度を変更し、程度の低い制裁とするほかの規定が存在するにもかかわらず、R-ADRおよびWADCは、要保護者に対する暫定的資格停止処分に関し、特段の規定を置いていない。

 WADC7.4.1項は、暫定的資格停止処分について、非特定物質に関する違反が疑われる場合は強制とし、特定物質の場合は任意としている。もっとも、WADCにおいて、要保護者が重大な過誤または過失がないことを証明できた場合の資格停止処分の範囲が、特定物質に関する違反の場合と同様(譴責~2年間の資格停止)であるにもかかわらず、要保護者による非特定物質に関する違反について、強制的な暫定的資格停止処分の例外規定が置かれていない。これは、要保護者に対して異なる厳格な取扱いをするもので、一貫性を欠き、規程において意図しない齟齬が生じていることから、仲裁廷が齟齬を埋める解釈を行う必要がある。

 以上に鑑みると、要保護者に関連するケースについて、暫定的資格停止処分は、WADC7.4.2項等に基づき任意とされるべきである。

 CASの先例や一般原則に基づくと、暫定措置について検討する場合、申立人を回復不能な損害から保護するために必要か、申立人が本案で勝訴する可能性があるか、申立人の利益が被申立人の利益を上回るかをすべて検討する必要がある。

 これらの検討に当たり、本件通知が行われるまでに時間がかかったこと、フィギュアスケート女子シングルの開催に関連するタイミングであったこと、競技者による弁明のための証拠収集(B検体の分析[7]も含む)が困難であったこと、本件検体から比較的少量の禁止物質が検出されたこと、問題となるドーピング検査の前後の検査では陰性の結果が出ていたこと、汚染物質または家庭内汚染の可能性があること[8]、ドーピング違反の場合に競技者に課される制裁の程度が小さい可能性が高いこと等を勘案する。

 また、有限かつ短いキャリアにおいて、メジャーなスポーツイベントに出場できないことは、競技者に回復不能な損害を与える可能性が高い。

 さらに、本仲裁廷は、本件機関による手続遅延の理由がコロナ禍による人員不足であるとしても、当該手続遅延はやむを得ないものとはいえないと考える。本件機関による手続の遅延について、競技者に非はない。当該遅延こそが、競技者に対する困難なタイミングの問題や、申立人を始め手続に関与するすべての当事者に対する厄介な運営・管理、そしてスポーツ・インテグリティの問題を突きつけた要因である。

 加えて、本件通知からわずか数日後にフィギュアスケート女子シングルの開催が迫っていることも、重要な要因である。競技者が同競技に出場できないことは、それ自体が回復不能な損害であり、北京2022オリンピックへの出場は、唯一無二の経験である。

 勝訴可能性については、このような短期間の手続で詳細に評価することはできないが、現段階では、競技者は、処分の可否・長さについて、取るに足らなくはない主張をしているといえば十分である。

 両当事者の利益・損害の比較については、仮に最終的に競技者に資格停止処分が課せられる結論になった場合には競技者は処分を受ける一方、暫定的資格停止処分が課せられたが最終的には資格停止処分が課せられず、または大幅に短縮される場合には、競技者は五輪で競技する機会を何の補償の可能性もなく失うことになる。五輪に出場した後に違反が確定した場合には競技者の競技結果を無効にすることができるが、五輪に出場する機会は儚く何物にも代えられない。

 以上の理由から、競技者に対する本件取消処分を維持する。

 

3 コメント

 北京2022オリンピックの期間中に、フィギュアスケート女子シングルの金メダル最有力候補であった15歳の競技者について、団体での金メダル獲得日、かつ、女子シングルの数日前というタイミングで突如ドーピング違反の嫌疑が浮上したことから、本件は世界中で大きな話題を呼んだ。また、ドーピング検査の遅延という特異な事情や競技者の年齢(要保護者(Protected Person)であること)、以前組織的ドーピングが問題となったロシアの選手であったこと等、通常のドーピング違反事例には見られない考慮要素も多く、適切な処分内容について、様々な意見が述べられた。

 要保護者の概念は、2021年度版の世界アンチ・ドーピング規程から採用されたものであるが、本件仲裁判断でも述べられているとおり、同規程では暫定的資格停止処分に関する要保護者の取扱いについて規定がない。したがって、規程をそのまま適用すると、要保護者である競技者についても暫定的資格停止処分を課すこととなると思われたが、RUSADAが暫定的資格停止処分を取り消した。これに対して、国際レベルの競技者に対するドーピング違反の処分について、不服申立権を有するWADA、IOCおよびISUが、CAS AHDに仲裁を申し立てたことから、CASがどのような判断をするのか注目されたが、結論としては、暫定的資格停止処分の取消しが維持された。なお、本件仲裁判断公表後、WADAは、強制的な暫定的資格停止処分の停止を認めた本件仲裁判断は、仲裁廷によるWADCの書換えであるなどとして本件仲裁判断を批判するコメントを公表している。

 予測可能性および法的安定性を担保し、ひいては不安定な立場に置かれることによる要保護者の精神的負担を減らすため、WADCにおいて、暫定的資格停止処分に関しても、要保護者の取扱いに関するルールが明文化されることが望ましいと考える。

 本件仲裁判断は、暫定的資格停止処分について判断したにすぎず、具体的なドーピング違反の有無および違反がある場合の資格停止処分等の処分内容については、別の手続により判断がなされる。法的にも事実上も着目すべき要素の多い事案であり、今後も動向が注目される。

(5)につづく



[6] ロシア選手団は、Asian Olympic Committee組織的ドーピングを理由に、WADAの決定およびCASの裁定により2022年12月まで主要国際大会から除外されており、ロシア人競技者は、ドーピングと無関係であることを証明できた場合に限り、個人資格でROCのメンバーとして出場できるにとどまる。

[7] ドーピング検査においては、提出された検体をA検体・B検体に取り分けた上で、最初にA検体が分析される。競技者は、A検体についてドーピング違反が疑われた場合、B検体の分析を要求することができる。

[8] 競技者は、同居する祖父が心臓病の治療のためにトリメタジジンを服用し、通常携行しており、競技者が祖父と食器を共用するなどした結果、汚染物質または家庭内汚染によってトリメタジジンを摂取した可能性があると主張している。

 


(みやもと・そう)

弁護士(弁護士法人大江橋法律事務所東京事務所)・ニューヨーク州弁護士。2006年3月筑波大学第一学群社会学類法学専攻卒、2007年9月弁護士登録・弁護士法人大江橋法律事務所東京事務所入所。2016年5月University of Virginia, School of law卒業(LL.M.)、2016年8月~2017年7月米国法律事務所Wilson Sonsini Goodrich & Rosati(Washington, D.C.)Antitrust Practice Group勤務。2018年ニューヨーク州弁護士登録。
主な取扱分野は事業再生、紛争解決及びスポーツ法。主な著書論文(共著)として「東京オリンピックのCASスポーツ仲裁 第1号案件」NBL1211号(2022)43頁。

 

(ほそかわ・あいこ)

弁護士(弁護士法人大江橋法律事務所東京事務所)。2008年東京大学法学部卒業、2010年東京大学法科大学院修了、2011年弁護士登録。2017年University of California, Berkeley, School of Law卒業(LL.M.)、2017年~2018年ドイツ大手法律事務所の国際仲裁プラクティスグループへ出向。主な取扱分野は国際仲裁を含む国際・国内紛争解決。主な著書論文として「国際仲裁入門――比較法的視点から」JCAジャーナル2018年1月号・2月号、『約款の基本と実践』(商事法務、2020)他。

 

(みのだ・ゆか)

弁護士(弁護士法人大江橋法律事務所東京事務所)。2015年慶應義塾大学法学部法律学科卒業、2017年東京大学法科大学院修了、2018年弁護士登録。主な取扱分野はコーポレート・M&A、紛争解決、消費者法。

 

弁護士法人大江橋法律事務所:https://ohebashi.com/jp/

1981年に設立され、弁護士150名以上が所属し企業法務中心にフルサービスを提供する総合法律事務所である(2022年3月現在)。東京、大阪、名古屋を国内の主要拠点としつつ、上海事務所及び各国の有力な法律事務所との独自のネットワークを活用して積極的に渉外業務にも取り組んでいる。会社法、M&A、紛争解決、労務、知財、事業再生、独禁法、情報法、ライフサイエンスなどの幅広い分野において、総合的な法的アドバイスを提供している。

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