法のかたち-所有と不法行為
第九話 明治の民法典制定
法学博士 (東北大学)
平 井 進
1 民法典論争-井上毅と富井政章
第八話で見たように、憲法の解説書である『憲法義解』を最終の形にするときに、穂積陳重と富井政章は学者として加わっていた。それを起草していた井上毅は、前述のように、ヨーロッパ流の所有権概念における「制限された絶対性」という理念の胡散臭さを理解しており、また、早くから「民法は急を以て行ふべからず、民法は民の好みに従ふべきを以てなり」と考えていた。[1]一般的に、井上の西欧法制に対する姿勢は、日本人の観点により選択的であった。
旧民法に対する民法典論争において、穂積と富井が施行を延期すべきとする議論の有力者であったことは、上記のような事情と無関係ではなかったと思われ、ここに民法は日本の民情に合っていなければならないとする井上をはじめとする思想的系譜をうかがうことができる。
富井は明治25年(1892)の貴族院での演説において、旧民法の様々な点について批判しており、中でも第一に、それがフランスの1804年の民法を参考にしているが、法学が進歩していてフランスの有力な学者もその大改正が必要であるとしており、フランスの法学が註釈学問になっているのに対してドイツの法学が進歩していると述べ、第二に、所有権との関係では、財産権を物権(物の上に行れる権利)と人権(人に対する権利)に大別することは「今日に於ては殆ど間違ひであると云ふことに学説の定まつたこと」であると述べている。[2]
[1] 坂井雄吉『井上毅と明治国家』(東京大学出版会, 1983)71-73頁。井上が明治5-6年にヨーロッパに留学していた時の上司宛の報告による。ちなみに、彼はフランスではボアソナードの講義も聞いていた。
[2] 杉山直治郎編『富井男爵追悼集』(有斐閣, 1936年)157-163頁。この演説からは分かりにくいが、富井の著作から見られる基本的な姿勢には、どの国の法を参照するかということの前に、日本の実情に合う法は何かという問題意識があったように思われる。