◇SH3378◇高校生に対する法教育の試み―契約法の場合(1) 荒川英央/大村敦志(2020/11/10)

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高校生に対する法教育の試み―契約法の場合(1)

学習院大学法学研究科博士後期課程
荒 川 英 央

学習院大学法務研究科教授
大 村 敦 志

 

はじめに

 1 高校生を相手に民法の授業を行うようになって10年近くになる。はじめは法科大学院の演習の一つとして学生たちをグループに分けて準備をさせ、夏休みに高校生を集めて、まる1日朝から晩まで学生たちが準備した授業に参加してもらうという試みを行っていた。私自身も土曜の午後半日を使って3コマ程度の授業を行ったことは何回かあったが、大学で言えば2単位の授業に匹敵するような(土曜午後半日×4回ないし5回)本格的な授業を行うようになったのは最近のことである。具体的には、2018年度から開成高校の1、2年生のうち希望者10名を対象にセミナーを行うようになり、2018年度には(古典的な)不法行為判例を、19年度には家族法改正を、そして20年度には契約法判例を素材として授業を行った(いずれも前期)。また、2020年度からは筑波大学附属駒場高校でも同様の枠組みでセミナーを始めることとし、この年(後期)は(現代的な)不法行為判例を素材とする授業を予定している。

 高校生を対象とした法教育の目的はひとつではないが、開成や筑駒のセミナーでは、単に法や法学に関心をもってもらうというのではなく、将来、優れた法律家になるために必要な基礎的な(しかし、レベルは決して低くない)考え方を知ってもらうことを目標としている。だからと言って、参加者がみな法律家になることを期待しているかと言えば、必ずしもそうではない。法的思考というものについて高い見識を備えた若者を、少数であっても世の中に送り出すことができれば、彼らはそれぞれの場で法的思考力を発揮して、よりよい社会を創り出していくのに貢献してくれるのでないかというのが、私のもくろみである。私の教育が一定の成果を収めているかどうかについては、これらのセミナーをもとに執筆予定の私の法学入門書を見ていただくほかないが、その刊行までには多少時間を要する。そこで、セミナーの記録係をお願いした荒川英央氏を煩わせて、彼の観点から授業観察記録をとりまとめてもらい、これを読者の閲覧に供することとした。今回公表するのは、2020年度開成セミナーの前半2回分の記録である。

 前半2回分に限っても記録は相当分量になるので、読者の便宜を考えて1回分のファイルを三つに分けることとした。その1には、第1章第2節の途中まで、すなわち、第1回セミナーの前半の内容に関する外形的な考察を掲載する。

 2 セミナーの内容そのものとは別に、このような記録を公開するのは二つの理由による。一つは、日常的に法律にかかわる仕事をしているという方々(あるいは、部下や生徒たちに法律を教えることがあるという方々)に、セミナーで私が扱っているような基礎的な問題に対する関心を持っていただきたいと考えるからである。私が高校生とともに考えている問題は基礎的なものであるが、そうであるがゆえに決して簡単なものではない。そこには法に対する考え方を問い直すきっかけが潜んでいる。また、それらは原理的な問題ではあるが、同時に日常の業務で遭遇する問題(法を教える上で留意すべき問題)を考える上でのヒントも含まれているのではないかと思う。もう一つは、法科大学院で学ぶ学生諸君に、高校生を相手に法を教えるという営みに関心を持っていただきたいからである。これからの時代の法律家は紛争を解決・予防するのに加えて、一般市民に向けて法を語る(その意義を説く)ことを求められるのではないかと思うのである。

 実は、この記録にはもう一人、想定されている読者がいる。それは私自身である。セミナーを行うにあたって私には二つの困難があった。一つは、何を教えるかにかかわる。以下の記録にも表れているように、私は、確立された知識を高校生たちに伝達するために授業を行っているのではない。高校生に語りかけることによって、私自身の法に対する、あるいは契約や不法行為に対する理解を深めたい。そう思って授業を行ってきた。もう一つは、いかに教えるかにかかわる。生徒たちがどこで躓き、何を疑問と思うのか。これらを知ることは、教育技術の向上・改善などとは異なるレベルで極めて重要なことである。問答式で行われている授業のさなかに、自分が何をいかに語っているのかを自覚することは難しい。記録は、この困難を乗り越える大きな助けとなる。実際のところ、以下の記録を通読することによって、私はいくつかのことに気づいた。この点については、荒川氏による記録本体のあとに「コメントへのリプライ」という形で、簡単にまとめておいた。また、最後に2回分のコメント・リプライを踏まえて「暫定的なまとめ」も試みた。この記録を読んだ上で、前述の私の法学入門を読んでいただけると、法を教えるというのがどのような営みかということを多少とも理解いただけるかもしれない。もし、こうした関心から本稿を読もうという読者がおられるとすれば、それはまた幸いなことである。

 3 「序」の最後に、共著者と私自身につき多少の自己紹介をさせていただく。荒川氏は東京大学法学部を卒業後、同大学大学院教育学研究科に進学し、修士号を取得、博士課程を単位取得退学したが、現在は学習院大学法学研究科博士後期課程に在籍している。研究対象は法教育であるが、明治日本における法学学習につき、人的・制度的・内容的な側面から検討を行う博士論文を準備するかたわら、私の行う高校生に対する法教育につきいわば参与観察する形で、契約法や不法行為法の教え方を検討している。私自身は、30年以上勤務した東京大学法学部を還暦を機に早期退職し、現在は学習院大学法科大学院で民法を教えている。専門は契約法・家族法・民法総論などであるが、若いころから法学教育・法教育に対して強い関心を寄せており、ささやかな研究及び教育実践を行っている。

(大村敦志)

 

第1章 パートナーシップ(契約と非契約)

第1節 授業の概要

 と き:2020年5月16日(土) 13:30~18:00
 ところ:web上のZoomミーティング
 テーマ:パートナーシップ(契約と非契約)
 素 材:内縁からパートナーシップ(PS)へ
 検 討:契約とは何か?/約束との違いは?/制度との違いは?

 

 2020年春の開成セミナー第1回目。新型コロナウィルス対策の緊急事態宣言下、web上でZoomを使ったミーティング形式で行われた。参加者の自己紹介のあと、主催者から上記テーマにそくした話題提供が行われたあと、参加者との自由な対話が行われた。

 話題提供は、素材「内縁からパートナーシップ(PS)へ」について考えるにあたっての前提知識を確認することからはじめられた。それに続く主催者と参加者とのやりとりはときにさまざまな方向へ及びつつも、パートナーシップの当事者は何を望んでいたか、今回のセミナーでキー概念のひとつになる制度に関わって、ここでいう制度的な関係とはどのような関係か、をめぐる議論へと進んでいった。

 約1時間30分程度の前半のあと、10分程度の休憩をはさんで後半が開始された。

 前半を受けて制度性をひとつの道標にしつつ、婚姻は契約だとして内縁は契約ではないのか、パートナーシップは契約といえるか、契約は制度か制度でないか、といった問いを軸に議論が行われ、契約・約束はなぜ守られるのか、契約・契約法を考えるとはどういうことなのか、についての原理的問題についてまで話は進んだ。

 

参加者
 主催者:大村敦志
 開成高校の生徒:10名(1年生5名、2年生5名(2年生のうち1名は昨年も参加))
 モデレーター:大村玲音
 記録係:荒川英央

 

第2節 外形的な観察――授業の進め方・生徒の様子など

 冒頭、主催者から今回の契約・契約法についてのセミナーでは、契約に関わる細かい問題ではなく、そもそも契約とはなんなのか、契約法は必要なのか、さらには社会契約とはなにか、法とはなにかといった契約・契約法の基本について話したい旨が述べられた。そのうえで、今回「内縁からパートナーシップへ」を素材に検討したいこととして、契約とは何か、約束との違いは何か、制度との違いは何か、といった問題が準備されていることが伝えられた。

 

1 内縁と何か

 まずパートナーシップを理解する前提として、内縁について、婚姻・同性婚・近親婚・重婚と対比させられながら、主催者と高校生の対話のかたちで説明がされていった。高校生の発言からはLGBTや憲法24条の文言との関係、暴力による“婚姻”などさまざまに話は及んだ。そのたび主催者からは、婚姻と内縁について理解を深めるべくコメントがなされていった。これらを引き取るかたちで話題は、内縁[保護]法理が形成された歴史的背景へと向かい、そして同法理の形成は「婚姻外」のカップルの保護になるよいことなのだという判断に支えられてきたとの認識が示された。

 

2 Q1:パートナーシップの当事者は何を望んでいたのか?

 内縁と同様、パートナーシップについても基本的理解がはかられた。まずパートナーシップの当事者は何を望んでいたか? という問いをめぐって、彼/女らは婚姻から生ずる法的効果の何を望まなかったのか、が問題となった。高校生からは、同氏・相続権(これを望まないことはあるのかとの疑問も出たが、債務の相続を嫌がることもあるのではとの指摘があった)、そして今回の素材に深く関わる離婚への制約が挙げられた。主催者からは、同居・協力・扶助義務のほか、財産分与や嫡出推定、法定財産制の下での婚姻費用分担義務などが適宜補足されていった。

 ここで高校生のひとりから出た次の質問から話題は転じていく。一方配偶者が共同生活を放棄して別のパートナーと夫婦同然の関係をもち、他方配偶者から損害賠償が請求されるなどの事件はあったのか、というものである。通常重婚的内縁のフレームで切り取られる問題だが、この質問をきっかけに、議論は婚姻・内縁と地続きのもの、そしてそれにとどまらない方向へもひろがっていった。

 

(1) 内縁[保護]法理の拡張?

 さきの質問からはふたつの方向に議論が展開した。

 ひとつは、別の生徒から重ねて出された疑問、すなわち、どのような要件で婚姻と同様な内縁関係にあると認められるのだろうかという問題から展ずる方向である。ここでまずこのひとつめの疑問についての議論をまとめておく。高校生からは、①片方からもう一方への献身的なふるまいがあれば考慮してよいのではないか、②結婚式は挙げたが未届でその期間がわずかならよいのではないか、などの意見が出され、主催者からは、③一緒に暮らす旨の契約書(公正証書)をつくることも考えられるとの話があった。①~③などがあれば、たとえ形式的な婚姻関係はなくとも、当事者の明確な婚姻意思によって婚姻同様の保護が与えられてもいいのではないか、ということであった。

 重要なのは、主催者との対話のなかから次のようなことを感じはじめた生徒がいたことである。内縁について裁判所が事後的に保護するかを決めるとすると、当事者が不安定な立場に立たされることに違和感がある。当事者は婚姻ほど強く拘束されたくないだろうが、一定程度の保護は事前に確保したいだろうから、と。これが議論が展ずるふたつめの方向につながるのだが、彼自身では簡単にはそのさきを続けられずにいた。

 

 (2)-① 内縁から第二のタイプの「婚姻のようなもの」へ

 主催者はPACSを紹介しつつ、順を踏んでもうひとつの方向を示してみせた――当事者が自分たちで婚姻以外を選ぶことはできないか。これは今回カギになる契約と非契約、あるいは、契約と制度の問題につながっていく。

 PACSは、主催者の表現によれば「いままでの結婚というのはけっこううっとうしい重い結婚なので、もっと軽い、」「パートナーだということは認めてくれるんだけど、でも離婚の手続きをとらないで別れられるし、相続権も発生しない」、そんな「第二のタイプの『婚姻のようなもの』」。しかもPACSの効果は裁判所に届出をした「その日から生ずる。」当事者は、事前に、自分たちの意思で、一定の法的保護を受けることを決められるというわけである。

 (2)-② パートナーシップへ

 主催者はもう一歩進んで次のように述べた。ここまでの議論の流れのなかに位置づけると、今回取り上げた平成16年最高裁判決の事件では、当事者は少なくとも当初は一定程度の保護すら求めていない。婚姻にしろ内縁[保護]法理にしろ、当事者に対する外部からの“お仕着せの保護”である。しかし、当事者は契約によってもっと自由に夫婦類似の(もはや類似ともいえないかもしれない)新しい人間関係を創り出すことにたどりつけるのではないか。ここではそうした創発的な契約が試みられたのであり、これがパートナーシップの当事者が望んだものだったのではないか、というのである。

 

3 Q2:制度的な関係とはどのような関係か?

 次に主催者は「制度」という一見ありふれたことばを特有の意味合いで使うことで、契約・契約法の基本の理解のひとつの在りようを提示しようと試みた。くりかえし発せられていくフレーズ「――なんていうのかな――」は、そのすべてを再現しないが、主催者自身が試行錯誤しつつより正確に伝えようとことばを紡ぎ出そうとした表れだったように思われる。

 さて、ここで制度的な関係は婚姻と内縁にそくして例解された。婚姻は制度である。内縁もまた――婚姻とは等価ではない――制度である。敷衍してこうだという。婚姻の要件が満たされて婚姻が成立すると、自動的にひとまとまりの法的効果(A)が生ずる。夫婦の同氏、同居・協力・扶助義務、それから相続権・財産分与などである。他方、内縁の要件を満たすと裁判所に判断されると、やはり自動的にひとまとまりの法的効果が生ずるが、それはAからの引き算になる。婚姻であれば生ずる法的効果のうち、内縁ではたとえば同氏にならないし、パートナーに相続権がないことにほぼ争いはない。これらの総体をαとすると、内縁の法的効果はA-αになる。これが「婚姻は制度である」ということであり、「内縁も制度である」ということである、というわけである。

 では今回問題のパートナーシップの当事者の場合はどうか。婚姻を選んでいない以上婚姻による法的効果は生じないし、内縁[保護]法理が適用される要件である婚姻意思もなければ婚姻生活と同様の生活実態もなかった。主催者によれば、このパートナーシップの契約は、当事者が「内縁の効果A-αも要らない」、「なんにも要らない、ということを実現したい」ために結ばれた(※なお、さきの制度の理解との対比では(特に創発的な)契約の効果は当事者が選ぶβ1+β2+…+βnの足し算のようになるだろう、と説明されることになった。やや唐突だがここで挟言しておく)。言い換えれば、事後的に適用されるかもしれない「お節介な」内縁[保護]法理を意図的に排除する契約だったという。

 「それにも関わらず、損害賠償請求するのはどうして?」と主催者に問われると、生徒はとりあえず「ひらたく言えば、気持ちが変わったから」と答えるしかない様子。「気持ちが変わった、というのはどういうこと?」と重ねて問われ、別の生徒が「やっぱ、おカネが欲しいからじゃ…」と答えるのが精一杯。主催者は意表を突かれた模様。さらに「君が弁護士だとしてさ、この女性が君のところに相談しに来たんだよ。で、損害賠償請求できますかね?っていうふうに相談されたら、なんて答えるの?」と詰め寄られると、「内縁[保護]法理というものは、当事者が一度ひっくり返して適用しないと言っても、まあ、原則は適用されるものだから、[…中略…]そこを突こう、と。」

 生徒のこの発言を、主催者は法律論的にはこうなると言い換えてみせた。「内縁[保護]法理っていうのは、――なんていうのかな――、当事者が合意で覆すことができない法理です、と。」このあとのやりとりを部分的に再現しておきたい。なお、話の流れをゆがめない範囲で、とくに断りなく略した部分もある。

 

  1. 生徒A: 強行規定だから、っていうことですか?
  2. 主催者: そうです。内縁[保護]法理は任意規定じゃなくて強行規定的なものなんだ、と。
  3.    […中略…]
  4. 生徒A: 内縁[保護]法理が任意規定だ、ってことになったんですよね?
  5. 主催者: それちょっと難しいんですけれども、――なんていうのかな――、内縁[保護]法理が完全な強行規定じゃない、ってことになった。
  6. 生徒A: 僕が聞きたかったのは、それならパートナーたちで――自分たちの手で内縁[保護]法理とかそういうのを変えられる、っていうことだったら、「変えたい」という女性の声は尊重されなくていいのか、ということを思ったんですが。
  7.    […中略…]
  8. 主催者: A君が言ってくれたのは、「当事者の意思を尊重する、ってどういうことか」という話なんですね。[カップルが交わした]その約束に、ふたりが従わなきゃいけない、というのは、どうして?
  9. 生徒A: それが契約[尻上がり]。うん、なんていうんでしょうね。
  10. 主催者: だけどやっぱり女性は「心変わりした」というので、その意思は尊重しなくていいんですか?っていうのが、A君の質問だったよね?

 

 ここから主催者は第一に任意規定と強行規定の区分の問題、第二に当事者がその意思に拘束されるのはなぜかという問題を取り出した。第一の点は次回以降に取っておくことにされた。第二の点については、契約の拘束力は「当事者がそれを望んだから」と説明されることもあるが、そう説明するなら、生徒Aが感じたように、一方がもう望まないなら約束は拘束力をもたないとも言えそうであり、休憩後はこれをどう考えるかを最初の話題にしたいと述べられた[ただし、再開後この話題がこのままのかたちと方向性で詰められることはなかった]。

(荒川英央)

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