◇SH3383◇高校生に対する法教育の試み―契約法の場合(2) 荒川英央/大村敦志(2020/11/13)

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高校生に対する法教育の試み―契約法の場合(2)

学習院大学法学研究科博士後期課程
荒 川 英 央

学習院大学法務研究科教授
大 村 敦 志

 

第2節 外形的な観察――授業の進め方・生徒の様子など(続き)

(1)の続き、すなわち、第1回授業の後半から始める。

 

4 Q4:婚姻は契約だが、内縁は契約ではない?

     Q5:婚姻・内縁は制度だが、契約は制度ではない?

 事前に参加者に配付された目次に掲げられていたQ3は後回しにされて、まずQ4・5が話題にされた。休憩前には、婚姻にあたれば自動的にひとまとまりの法的効果が生ずる、そして、このことが婚姻は制度であるということの意味である、と説明された。内縁についても同様であった。[たしかに、婚姻は契約のひとつであり、内縁も当事者の合意が必要とされ婚姻に準ずるものと考えられている。ただ、(以上、筆者が補記)]ここで述べられたような意味では、婚姻も内縁も制度性が高いことになる。

 では、パートナーシップはどうか。パートナーシップの当事者は本来、契約によって「自分たちで自分たちの関係を創ろう」と意図していた。その意味では制度と比べると契約的な性質が強い。制度と契約のこのような対比のなかでは、婚姻・内縁(制度)は当事者の関係を規定するものなのに対し、パートナーシップ(契約)は当事者が自分たちの関係を創り出していくものである、というイメージで話を進めてきた、といったん整理された。

 この整理に対しては、モデレーターから、制度は人びとに強制力をもつものという印象を強く受けるがその理解でよいのか、という疑義が示された。これに応えて主催者からは、制度性について分析的には次のふたつの側面があることが指摘された。すなわち、制度性があると、1)当事者の合意によってはその効果を排除できない、2)内容が事前に決まっておりそれが自動的に当てはめられる、のだという。

 さらにモデレーターから、明文の規定があると制度性のふたつめの側面が高まるのではないかというコメントが加えられた。ここを起点に話題は結局後回しにされたQ3に進むことになった。

 

5 Q3:契約は制度か? 契約は制度ではないか?

 ここまで主催者は、婚姻や内縁は制度であり、パートナーシップは契約であると対比的に説明してきたが、「契約もまた制度である」と言う。たとえば売買契約については民法のなかに規定があり、売買契約であれば自動的にひとまとまりの法的効果が生ずる(たとえば契約不適合責任)。このように説明できるから、「婚姻は制度である」のと同様に「契約は制度である」ことになるというのである。

 この説明については生徒から疑問が出た。それは売買契約のような民法に規定がある典型契約だから言えることなのではないか。パートナーシップ契約のような内容がほぼ全面的に当事者の裁量に委ねられたものには当てはまらないのではないか、と。

 主催者は一面でその正しさを認めつつもう二歩議論を進めた。第一に、たしかに一回目の、創発的な契約は制度性をもたない。ただ、その契約が繰り返されると、法律に明文の規定がなくとも、次第に社会のなかに定型が現れて制度化が進んでいく(たとえばクレジット契約)。第二に、他方、婚姻にも当事者が決められる部分があるとはいえ(たとえば夫婦財産制)、やはり標準から外れることは困難である。それと比べれば、契約は当事者の合意で決められる自由度が高いものが少なくない、と説明された。

 モデレーターからは、いまの説明のように制度性が強制力と結びついているとすると、強制力がないものは制度ではないことになるのか、が問われ、これについてはQ6で引き受けるかたちで話題にすることにされた。

 

6 Q6:パートナーシップは契約と言えるか? なぜパートナーシップを結ぶのか?

 まず主催者からQ6が置かれたフレームについて次のような解説があった。今回取り上げたパートナーシップ契約はパートナーのあいだの法律関係をゼロにするために結ばれた。日本には内縁[保護]法理があり、それが適用されるとパートナーのあいだにいくらかの法律関係が生じてしまう。そのため、内縁[保護]法理を排除し、効果をゼロにすることが意図されていたことになる。ここで内縁[保護]法理がない、と仮定してみる。するとこのパートナーシップ契約からはなにも法的効果が生じないことになる。では、効果が生じない約束はしても意味がないのか――これは強制力の問題とも関わる、そして、法学では「契約は拘束力をもつ」と言われるが、ここで底流にあるのは「本当にそうなのか」という問いである、と。

 議論の糸口として、主催者からは、同性婚が法的に認められていない現在の日本において、渋谷区や世田谷区などで同性パートナーシップ証明が行われているのはなぜだろう、という質問が投げかけられた。短いやりとりのなかで高校生から出た「象徴的な意味」を起点にさらに次のように述べられた。われわれはなにかを約束することによって、たとえ弱い関係かもしれなくても、自分たちが一定のかたちをとった関係にあることを当事者として認識するとともに、社会からもそういう関係にあるものとして扱われることを期待するのだろう。そうした約束は意味のないことでないどころか非常に大事なことだと思われる。また、同性パートナーシップ証明が普及していったと考えてみて欲しい、そのとき、証明を受けたパートナーのどちらかが別の人と関係をもったとすると、「ああいう約束をしているのにも関わらずそれを守らない人」というネガティブな評判が立つだろう。それは、強制力との関わりで言えば、国家の法律が帯びる制度性とは別種の制度性に基づく制裁を受けるということだと言えるだろう。これらの諸点も契約・約束が交わされることの無視してはならない意味であるように思われる、とのことであった。

 

7 Q3:契約は制度か? 契約は制度ではないか? 再訪

 ここで主催者は再びQ3に戻り次のように述べた。契約は制度か? と言えば、さきにふれたような意味で「契約は制度である。」しかし、契約は100%制度か? と言えば、そうとまではいえないまた別の側面がある。カップルP・Qの一方(ここではPとする)が第三者と性関係をもつことは、P・Qが婚姻カップルであれば民法の規定によって制度として禁止されていると考えられている(QはPと排他的な性関係をもち平穏な共同生活を送るという権利ないし利益が害されたことにより、第三者に対して損害賠償請求ができることになる)。しかし、パートナーシップ契約によっては、第三者に対してPと性関係をもつことを禁止することはできない。P・Qがお互いに第三者と性関係をもたない契約をしていたとしても(契約の拘束力は当事者以外を拘束しないから)、Pがふだん「私、付き合っている人います」マークを身に付けていても(巧みにマークを外すだろうから)、……――契約でPと第三者の性関係を封じることはできないという意味で、契約は100%制度ではない。このことも制度と関連づけて契約を理解する上でポイントになる、と解説された。

 

8 心変わりと約束・契約・制度

 今回取り上げたパートナーシップの当事者は心変わりによってパートナーシップの解消に至った。心変わりと約束・契約・制度の関係については次のように説明された。人は心変わりする。心変わりを阻止するために人は契約を交わす。契約することは現在の自由を手放す代わりに将来の安定を手に入れることである。逆に、契約しないことは現在の自由を手放さない代わりに将来同じ機会を手にする保証を失うことである。法的な保護や強制がなくても約束を守ってパートナーシップを維持できると「愚かにも」信じた結果がパートナーシップの解消であった。人のこの「愚かさ」を克服するのが契約であり制度である。人は契約によって将来に向けてお互いに義務を課して安定した関係を創り出そうとし、さらに契約以上のものを手に入れようとして、ここでいえば婚姻という制度に依る、とのことであった。

 

【整理】

 以上のセミナー第1回で話題になったことが表のかたちに整理された。

 

  制度
(定型性)
制度/契約
(可変性)
契約
(積極性)
約束
(強制性)
婚姻
内縁 × ×
PS

 

 制度(定型性)の列については改めて説明するまでもないだろう。契約(積極性)の列について、内縁が×になっているのは、内縁は夫婦同然の生活実態を事後的に評価されるものであるので、自発性・積極性が乏しいから、とのことだった。同様の事情にくわえて内縁は裁判所が裁量で判断するので、制度/契約(可変性)の列についても×になっている。この制度/契約(可変性)については、パートナーシップは当事者が内容について大きな自由をもつ(○)が、婚姻も夫婦財産契約の部分で選択肢が組み込まれているので△になっている。約束(強制性)についてはパートナーシップに象徴的な意味が認められれば社会的強制力をもちうるが、内容からして強制性は乏しくなっている。

 契約と制度は対比的に捉えられることが多い。しかし、今回のセミナーは契約と制度を連続的なものとして捉えることもできるのではないか、という発想から契約と契約法の基本について再考を試みたことになる、と締め括られた。

 

【整理のあとで】

――以上の整理のあとも、議論は続いた。以下はそのうち「契約法入門」の延長として書き留めるほうがよいと思われた話題であり補論に近い(もっとも、重要なテーマも含まれている)。対話の部分は、[ ]で補った部分も逆にここまで以上に大幅に省略したところもあるが、議論の筋道が損なわれないように努めてある。

 

補1 法学入門者の法のイメージと契約自由の原則

 モデレーターから、これから法学を学習する人が抱いているかもしれない法のイメージと契約・契約法の世界のイメージの関係について話題が示された。

 

  1. モデレーター: 法、って、基本的には、カチッと決められてるものなんじゃないか、っていうイメージっていうのが存在するんじゃないか、と思うんですけど、柔軟性のある法、っていうのが、法なんですか?
  2. 主催者: 皆さん、大学に入って、法学部に行くと、契約法の授業を聞きます。そのときに、契約自由の原則、だとかっていうことを言われるわけです。で、契約、ってのは当事者が自由に内容を決めることができるんだ、と。それは法のイメージと合わない?
  3. 生徒B: [モデレーターが言うのは]ある個人に「これは自分で決めていいよ」とか、そういうのは法でやるべきではなく、法、っていうのは「こうしなきゃ、ああしろ、ああしなきゃダメ、こうしなきゃダメ」っていう感じのかたちであるべきだ、っていうことですか?
  4. 主催者: 「婚姻は決まってる通りにやってください」と。それはそれでなんとなく分かる、と。「契約は、しかし、好きにやっていいですよ」と。この「好きにやっていいですよ」っていうのがあんまり法の感じがしない、ってのがB君が言ってるところかな?
  5. 生徒B: モデレーターがそう言いたかったのかな、って思った、っていう。
  6. モデレーター: そう、そう。「自由にやっていいですよ」っていうふうに言わなくても、なにも言わなくても、なにもなかったら自由にやるんじゃないですか、っていう。
  7. 生徒C: [契約自由のルールは]あってもいいけどなくてもいい、みたいな?
  8. 主催者: いや、それは、あってもいいけどなくてもいい、じゃ、ない、と思うんですね。――なんていうのかな――、法律が自由に契約していいですよというふうに言うことと、なにも定めなくてまったく放置してる、っていうことのあいだには大きな差がある、と思います。これ、大事なところだな。この差はどこにあるか、皆さん、分かりますか? 当事者は自由に契約していいと言うだけだとしたら、なにが起こる?
  9. 生徒B: 普通に破っちゃいますよね。契約がすぐに破られることが[起こる]。……あ、あ、違うかな。すいません、違ったかもしれません。
  10. 主催者: いや、違ってない、違ってない、その次も続けて。
  11. 生徒B: 契約、って、安定性を保証するもんでしたよね? たしか。
  12. 主催者: うん。
  13. 生徒B: だからその安定性を保証できるということが本質で、つまり破れない、ということ。でも、で、破れない、ってことが大切で。当事者間を縛ることができる、ということですかね。
  14. 主催者: で、縛ることができない、って、どういう状況?
  15. 生徒B: […聴き取れない…]
  16. 主催者: そうそう、契約は自由だよね、っていうことについては、――なんていうのかな――、ふたつの意味がある、っていうことを区別する必要があると思うんですね。

 

 最後の生徒Bの応答は再現不能だが、契約自由のふたつの意味について主催者から次のような説明があった。たとえば同性愛の自由(同性カップルの承認)が言われたとして、「好きに契約やってよい、国は犯罪として処罰しない、契約が守られなくても関知しない」、これが契約自由のひとつの意味だろう。そして、「その人たちが決めた自分たちの関係についてのルールの実現に国が力を貸す」、これが契約自由のふたつめの意味だろう。

 ふたつめの意味について注意すべきなのは、いま日本法を法学部で学習すると、法律でそう定められているとほぼその通りになる状態なので、これを自明視しがちなこと。しかし、これは法律・国家からの説明で、当事者・社会からの説明としては、約束が守られるのは「当事者が守ると言ったから」であって、評判というかたちの社会的な力がはたらくからである。現在の状況は契約の実現に国家が力を貸す方向に動いてきた帰結だが、むしろ社会的な力のほうが基底的なのではないか。法学部生は「法律があるからわれわれはそれに従っている」と考えがちだが、2020年春以降の新型コロナをめぐる(とりわけ日本の)社会の動向は社会的サンクションの存在をリアルに感じる機会になったのではないか、とのことであった。

 

補2 当事者の自由選択と国によるその実現――「契約とはべつのところで」

 生徒から次のような質問が出された。「契約自由の原則」で説明されたような、当事者の自由に委ねられたことの実現に、国の力を使うことができるというような法律は他にあるのか。契約については理解したが、契約以外で、どのような法律があるのか。

 この点、主催者からは、この質問に十分に答えることは難しいとの断りがなされたうえで、次のような説明があった。自由に決めたことをその通りに国が実現してくれるもののことを「契約」と呼んでいるのだと思われる。そして、そのような制度が存在すれば、「それは契約的な制度だ」と性格付けされることになるだろう。たとえば、婚姻のように制度性の高いものに、選択的夫婦別姓が取り入れられて自由の範囲が広がれば、「婚姻が契約化しつつある」と表現することになるだろう。また、親子関係のように「自然」と考えられてきた領域に代理母が登場したことで、「子どもを産んだ人と、その人を妊娠させた人が親になる」のではなく、「子どもが欲しいと思って発注した人が親になる」という仕組みが採用されることになれば自由の範囲が広がることになりうる。これは「親子関係が契約化しつつある」と表現することになるだろう。

 介護保険のほうがよい例かもしれない。かつて介護は、介護が必要な要件を満たしたら、国が一定の措置を一方的に取る(たとえば車椅子を給付する、など)という意味で制度だった。これに対し、介護保険法ができてからは、介護サービスが必要になったら当事者が市場で購入し、その費用を介護保険でカバーする仕組みになった。介護保険制度の導入をこのようにとらえると、「介護の契約化が進んだ」と表現することができるだろう。

 われわれは「契約」ということばをこのように使っている。冒頭で話題にした「社会契約論」につなげると、社会契約も同じような意味合いをもっている。「この国に産まれたから、自動的に“お仕着せ”で制度の適用を受ける」というかたちで説明を受け容れるのではなく、「われわれが契約によってこの社会を選んでいる」というかたちで説明することによって、「そうなのであればわれわれは契約の内容を変えることができる」し、「われわれが契約によってこの社会を選んでいるのだから、われわれは自発的にこの社会に参加し、この社会で義務を負う必要がある」というように説明することになるだろう。契約がひとつの法技術であるのはたしかである;ただ同時に、契約は、この世界に存在するさまざまなことがらについて「自発性」や「内容の自由さ」を組み込むためのメタファーとして使われているものなのだ、と理解してもらうといいかもしれない、とのことであった。

 

補3 契約化の実相とその評価

 いくつかの領域で契約化が進んでいるとの説明を受けて、生徒からは次のような疑問が示された。たとえば、「夫婦別姓にしたいがいまはできないから婚姻できない」という発言に対して、「それなら婚姻しなければいい」といった反応が出る現状がある。それを考慮に入れると、本当に時代の流れは制度から契約へであるととらえられるのか、かりに実際に契約化が進んでいるのだとしたら、そのことをどう評価しているか、と。

 この点、主催者からは、「制度から契約へ」は大きな流れであろうという見立てが示されたうえで、視点を微動させながら次のようにコメントがなされた。今回、「契約は制度と比べて自由だ」と言うと同時に、「契約も制度だ」と繰り返し言ってきた。契約には一定の枠があり、当事者がなにもないところからまったくフリーハンドで組み立てるところまではいかないだろう。また、選択的夫婦別姓はたしかに自由度を高めるものだが、選択肢がひとつ増えるだけとも言える。

 では、まったくのフリーハンドにならない/しないのはなぜか。ひとつには、それに伴うコストの問題があるだろう。たとえば、婚姻に関しては法定財産制が制度として用意されている一方で、夫婦の財産関係のなかみを夫婦財産契約によって決めることもできるのだがほとんど使われない。この点は夫婦財産契約は自分たちで創り上げるのは非常に難しいため、過大なコストを背負い込むことが避けられているから、と説明できる部分があるだろう。もうひとつには、契約で自由に決めるといっても、われわれはいくつかのパターンのなかからひとつを選ぶだけで相当程度の満足をえられることが多いという面もあるだろう。たとえば、皆さんが開成高校を選んだあとは、始業時間や授業の内容については学校が決めた契約内容をそのまま呑み込んでいるのはその証左ではないか、とのことであった。

 

 以上で外形的な考察は終わりである。その3では内容的な考察に進みたい。

(荒川英央)

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