◇SH3592◇中学生に対する法教育の試み―不法行為法の場合(4) 荒川英央/大村敦志(2021/04/22)

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中学生に対する法教育の試み―不法行為法の場合(4)

学習院大学法学研究科博士後期課程
荒 川 英 央

学習院大学法務研究科教授
大 村 敦 志

 

第2章 船橋市西図書館事件(被侵害利益―人格的利益)

第1節 授業の概要

  1. と き:2020年12月12日(土) 13:00~17:10
  2. ところ:web上でZoomミーティング形式
  3. テーマ:船橋市西図書館事件
  4. 素 材:被侵害利益―名誉
  5. 検 討:一般不法行為法による対応/法的に保護される利益か否か/表現の自由の保護方法(消極的保護から積極的保護へ)/もうひとつのとらえ方としての平等取扱原則[差別禁止の例/「公共の場」と先行行為・関連価値/行為態様]
  6.     *法的推論(法適用)について

 

 2020年冬の筑駒セミナー第二回目。前回同様、web上でZoomを使ったミーティング形式で行われた。まず、前回参加者から出された質問で保留になった問題に関わる説明があった。続いて法的推論をめぐって、前回と今回の対比が図式的に示され、前回はルールから考えはじめたのに対して、今回は事実から考えはじめるという見通しが示された。

 今回の話題の提供は、事件の概説に続いて、主催者と参加者との対話のかたちで、船橋市の図書館の除籍基準についてその全体としての構造と個々の項目の趣旨・意味とについて立ち入った検討から行われた。この対話を通して船橋市西図書館事件の問題はなんだったのかが浮き彫りにされた。前半を聴いた参加者から、今回話題になるはずの人格的利益が、図書館職員のルール違反とどう関係するのかという疑問が示された。主催者はそこが事件のポイントで、後半で話題にしたいとされた。第一回同様このようなやり取りが交わされたことは主催者の話題提供の仕方の点でも参加者の理解の点でも特筆すべき点に思われる。

 約10分の休憩後、前半最後に示された問題が主催者と参加者との細部にわたる対話によって検討されていった。除籍基準自体やその運用について批判的検討がさらに進められ、本セミナーなりのルールが立てられたのち、主催者から最高裁判決の解説が行われた。最後に、法的推論について第一・二回を終えた段階で、振り返って考えることが促された。

 

参加者
 主催者:大村敦志
 筑波大学附属駒場中学校の生徒:9名(3年生)
 筑波大学附属駒場中学校・教諭:小貫篤
 モデレーター:池田悠太
 記録係:伴ゆりな・荒川英央

 

第2節 外形的な観察――授業の進め方・生徒の様子など

第一回で残された疑問への応えに代えて

 第二回の話題に入る前に、第一回(ゴーマニズム宣言事件)で生徒から出された質問、裁判の判決は論評であるとした判決がもとになって新しい論争を生んだ例はあるのか、という疑問への応えに代えて、主催者から次のような補足が行われた。

 

1)判決の法的な効力

 判決が判断した事実関係がその後の裁判にどのような影響をもたらすのかについては、物的範囲・人的範囲・時的範囲が問題になる。前回の「ゴーマニズム宣言事件」で言えば、判決の効力は当事者(上杉と小林)のみに及び、時的には判決の時点までのものであってそれより後には及ばない。名誉毀損による損害賠償請求の事件だったので、それを蒸し返すことはできないが、別の問題であれば争うことはできる。

 

2)判決の事実上の影響力

 判決には法的な効力のほかに、事実上の影響力も考える必要がある。判決がどのように報道されるかによって議論の方向が変わる場合もある。また、ある事実が真実かどうか判断されれば、その後の同じような事件に対して一定の影響を及ぼすこともある。

 話題を呼んだ事件としては、大江健三郎の『沖縄ノート』をめぐる訴訟が挙げられる。『沖縄ノート』には、沖縄では日本軍の隊長の命令で集団自殺が起きたと書かれている。元隊長やその遺族は、これは真実ではなく名誉毀損であるとして争った。判決では、それは真実とは言えないが、大江氏が真実と考える相当な理由があったとされた。この判決から後は、隊長の命令によって集団自殺が起きたと言いにくくなっただろう、とのことであった。

 

法的推論の形式的構造:第一回と第二回の対比

 続いて主催者から、第一回と今回の第二回の見通しをよくする次のような図式的対比を用意していることが示された。法的推論の形式的構造は、大前提として法命題を据え、一定の事実が要件に当てはまることを小前提とし、結論を導くかたちになる。第一回のゴーマニズム宣言事件は、古典的なタイプの比較的明確な法命題(ルール:名誉毀損についての規律)がすでに存在するものだった。このため、ルールから考えはじめて、そのルールを事実にどのように当てはめるか、要件となる事実が認められるかが中心的話題になった。これに対して、今回取り上げる船橋市西図書館事件は、新しいタイプの人格的な利益の保護が問題になり明確なルールが存在していなかった。そのため今回は、事実から考えはじめて、一定の事実があるときに損害賠償を認めるかどうか、認めるとするならその要件はどのようなものか、未だ明確でないルールをどのように立てることができるか、といったことが話題の中心になる、とのことであった。

 *以上のような主催者の意図・試みをふまえ、今回の記録については主催者と生徒たちの対話について細かい点に立ち入ってその再現を図った部分がある。

 

1 船橋市西図書館事件の構図

 今回取り上げる事件の構図は次のように説明された。結論としては、最高裁は東京高裁に差し戻した。判決文の構造は、ゴーマニズム宣言事件同様でわかりやすいものになっている。

 事件の経緯は次の通り。船橋市の図書館は条例に従って蔵書を除籍することになっていた。しかし、前回も話題になった「新しい歴史教科書をつくる会」に関係する著作者の図書について、ある司書が市の除籍基準には当てはまらないにもかかわらず除籍処理し廃棄した。この廃棄が産経新聞の報道で発覚。その司書は船橋市から減給処分を受けた。この市の処分とは別に、廃棄された本の著作者らが、この廃棄によって著作者としての人格的利益を侵害され精神的損害を被ったとして、損害賠償を請求した。訴訟は最高裁まで持ち込まれ、最高裁段階では、国家賠償法1条1項または民法715条に基づいて船橋市の責任が問われた(なお、最高裁判決は国家賠償法上の責任を認めたが、この記録では、主催者の問題設定に従って民法上の不法行為法の問題として扱う)。

 東京高裁(原審)が損害賠償請求を認めなかった理由は次の通り。①本の著作者が、自分の書いた本を図書館に購入するよう請求できる法的な地位にあるとは解されない。また、②いったん図書館に購入された場合でも、その本を閲覧させる方法について著作者が法律上具体的な請求ができる地位に立つ関係にまで至るとは解されない。だから、廃棄されても、著作者が権利や法的に保護されるべき利益を侵害されたことにはならない。

 この高裁の判断を、最高裁が覆した理由は次の通り。①-ⅰ)公立図書館は、住民に対して思想・意見などを含むさまざまな資料を提供する「公的な場」である。①-ⅱ)その公立図書館の職員は、独断的な評価や個人的な好みにとらわれずに公正に図書館資料を取り扱う職務上の義務を負う。②-ⅰ)もう一面では、①-ⅰの役割をもっている公立図書館は、そこで閲覧に供された図書の著作者にとって、その思想・意見などを公衆に伝達する「公的な場」でもある。②-ⅱ)そうした公立図書館の職員が、不公正な取り扱いによって図書館資料を廃棄することは、②-ⅰの点からすると、著作物によってその思想・意見などを公衆に伝達する著作者の利益を不当に損なうものである。そして、③思想・良心の自由が憲法で保障された基本的人権であることにもかんがみると、この著作者の利益は法的保護に値する人格的利益と解される。ここには法的に保護されるべき人格的利益があるのだから、「つくる会」関係者やその著書に対する否定的評価と反感から司書が除籍・廃棄したのは、そうした利益の不当な侵害に当たり、市の損害賠償責任が発生する。

 以上のように少なくともふたつの考え方が裁判所で示されている、とのことだった。

 そのうえで主催者は、制度的には最高裁が上位だが、その制度的な前提を外したとき、どう考えられるだろうかと訊ね、次のような対話が行われた。

 

  1. 生徒A:高裁が、買うのは図書館の勝手であったり、置くのも図書館の勝手だ、と主張しているのですけれども、[今回の除籍・廃棄は]図書館のルールに基づかない廃棄で、その図書が「不当に廃棄された」という事実が、精神的苦痛を与えた、というのは、十分侵害にあたるのではないか、と思いました。
  2. 主催者:いまの意見のいいところは、買うか買わないかという問題と、廃棄するか廃棄しないかという問題を切り離して、それぞれに評価するっていう観点を出してるところはすぐれたところだと思いますが、反論可能だと思うんだけど、だれか。
  3. 生徒B:図書館は公的ではあるものの、やはり、自分が所有しているものについて自分でその扱いを判断できないというのは、所有権という観点から見るとおかしいっていう意見もあると思います。
  4. 主催者:B君は非常に慎重に、図書館というものをどう位置付けるかということについてもふれてくれたんですけれども、図書館じゃなくても、モデレーターが[私の本を]捨てても、私はけっこう傷つきますよね。捨てられた人は、そのことを知ったら、「なんだよ」というふうに思うだろうと思います。で、B君の話は、個人なら、そうやって捨てるってことあるだろうし、図書館だって、自分の物なんだから、そうやって捨てるってこと、あるでしょ、という立場ですよね? これはどうでしょうか?
  5. 生徒A:やはり図書館が購入の当事者である、っていうところが問題だと思って。図書館というのは、本来、公平に本を集めてひろく人びとにみせる存在なハズなので、個人が物を捨てるのとはまた別の話になるんじゃないかな、と思います。

 

 購入する/廃棄するは別である、個人が捨てる/図書館が廃棄するは別である、図書館は公平であるべきである、図書館によるルールに基づかない除籍・廃棄は不当に他人の利益を侵害することになる、といったこのさきの議論で考慮される点がいくつも生徒から示された。主催者は個人なら処分するのは自由という点については議論の余地があるとしつつ、図書館だと不当な廃棄になる場合がある、といったあたりに生徒たちの考えの落ち着き先を位置付けたうえで、船橋市の除籍基準の検討に話題を転じた。

 

2 船橋市の除籍基準:その構造・趣旨・解釈方法

 判決文によれば、事件当時の船橋市の図書館の除籍基準は次の通りであった((9)は雑誌についてのルールだったので省略された)。

 

(1)蔵書点検の結果、所在が不明となったもので、3年経過してもなお不明のもの。
(2)貸出資料のうち督促等の努力にもかかわらず、3年以上回収不能のもの。
(3)利用者が汚損・破損・紛失した資料で弁償の対象となったもの。
(4)不可抗力の災害・事故により失われたもの。
(5)汚損・破損が著しく、補修が不可能なもの。
(6)内容が古くなり、資料的価値のなくなったもの。
(7)利用が低下し、今後も利用される見込みがなく、資料的価値のなくなったもの。
(8)新版・改訂版の出版により、代替が必要なもの。

 

 主催者はこの8つの個々の基準をまとめるとどうなるかを訊ねた。生徒の応えは、(ⅰ)図書自体がなくなった場合、(ⅱ)図書の価値がなくなった場合、に二分される、というもの。これを受けて主催者はこのふたつ以外では除籍できないのか、そうだとすると窮屈すぎないか、と訊ねたところ、生徒からはスペースの限界があるだろう、との応え。

 ではそのとき、具体的にはどうするのか?

 

  1. 生徒C:誰にも読まれなくなった本から捨てられていくと思うので、その基準にある、「価値のなくなったもの」に該当するのではないでしょうか。

 

 主催者は、この発言の基底に「除籍するなら基準に当てはまるかたちでする、それなら必ずルールに従って処分したことになる」という発想が伏在している可能性を指摘したうえで、ルールの解釈の仕方に話題を転じていく。基準そのままでは必ずしも当てはめられなくても、基準に含まれる考え方を膨らませて対処する仕方もあるが、どの基準の考え方を膨らませていけるだろうか、と。生徒Cはこのなかなら(7)がよいのではないか、との応え。

 主催者はほかに除籍できる本はないだろうか、と問いを重ねた。

 

  1. 生徒D:内容がすごい重なってるというか、あるジャンルに本が集中しているみたいな、そういう場合は?
  2. 主催者:あ、なるほどね。今の話は、この(6)~(8)だというと、どれに近いかな?
  3. 生徒D:えーと、――……(6)がいちばん近いと言えば、近いというか。

 

 これに対して主催者は(8)はどうだろう、と応じた。

 

  1. 生徒D:(8)は、――……あー、(8)かもしれない。新版、旧版、――……うーん?
  2. 主催者:私の教科書、『新基本民法 1』、っていうのが、今まで図書館に入ってたんだけど、『新基本民法 1:新版』っていうのが出た、と。そうすると、『新基本民法 1:新版』を買ったら、『新基本民法』の旧版は要らないよね、っていう、そういうことだよね、これ?
  3. 生徒D:それは、同じものじゃないですけど、新しいバージョンですけど、そうではなく、別のものだけどたまたま内容がかぶる、みたいな感じだから、ふたつある必要がないから、(6)かな、と思ったんですけど。

 

 主催者は、そうだとすると、生徒Dが(6)だと言うのは、「内容が古くなり」のほうではなく、「資料的価値のなくなったもの」のほうに着目しているからだろうか、と指摘したうえで、また別の角度から問いかけた。

 

  1. 主催者:(8)の、「新版・改訂版の出版により、代替が必要なもの」って書いてあって、ここには資料的な価値がなくなったもの、って書いてないよね? これ、なんでかな?
  2. 生徒D:新しいものと古いものを一緒に置いておく必要がないから、っていうことなんじゃないですか?
  3. 主催者:そうすると、資料的な価値はあるの? 古いものに?
  4. 生徒D:古いものが、――……、あ、でも、違うか。

 

 考え込んでしまった生徒Dに代わって別の生徒が次のように応えた。

 

  1. 生徒E:(8)の場合、古いものにも価値は残っていると思うんですけれども、新版・改訂版だと、古いものの情報であったり価値を包括した状態で、さらに付加的な価値が加わったりすることがもっぱらなので、たとえ古いものに価値があったとしても、破棄しても問題ない、というルールだと思います。
  2. 主催者:資料的価値というのは、誰にとっての資料的価値なのかな? 資料的価値って、本そのものの価値のこと言ってるよね?
  3. 生徒E:そうですね。
  4. 主催者:新版を入れてない図書館だったら、旧版があってもいいよね? それは資料的価値あるもんね。

 

 生徒たちの考えをこのように引き取ったうえで、主催者は全く同じ本を2冊買ったら1冊は除籍できるだろうか、と問いを進めた。

 

  1. 生徒F:その本が、すごい借りられてたら、別に2冊あってもいいと思いますけど、2冊あることに価値はないから、1冊捨てても別にいいんじゃないかな、と。
  2. 主催者:なにを言ってるのかというと、(6)(7)(8)はいずれも、「この図書館にとって」資料的価値がなくなった、と。で、具体的な判断をするまでもなく、新版が入ったら、旧版は要らないよね、と。こういうふうに考えられるので、もう旧版には、定型的に、この図書館にとっての資料的価値はない、と。だから、わざわざ「資料的価値のなくなったもの」っていうことを言ってないんじゃないかな、と思います。それに対して、内容が古くなったとか[6]、利用が低下したとか[7]、っていうときには、それで直ちに資料的価値がなくなったとは言えないので、資料的価値がなくなったというふうに判断されるかどうか、って、もう一度具体的に判断しなきゃいけないんじゃないかな、というふうに思います。

 

 こう解釈を示したうえで、主催者は重ねて訊ねた。

 

  1. 主催者:私が途中で挙げた、同じ本を2冊買ってしまった、というのは、ここに挙がってない。2冊同じものがあったときに1冊を廃棄できるというのは(8)に含まれる、っていうふうに、皆さん、考えますか?
  2. 生徒G:はい、僕は(8)だと思います。
  3. 主催者:うん、で、どういうふうな理屈? (8)の言葉には含まれないよね?
  4. 生徒G:あー。
  5. 生徒F:うーん?
  6. 生徒H:(7)のほうが近いんじゃないかな、と思います。
  7. 主催者:ん、なるほど。理由は?
  8. 生徒H:たとえば、2冊あったとして、すべて1冊のほうに貸出を集中させれば、もう1冊は利用が低下して、今後も利用される見込がない、みたいな範疇に入ると思います。

 

 主催者は生徒Hの解釈の巧みさを認めたうえで、次のように述べた。

 

  1. 主催者:(8)でもできる、と思いますね。新版が出たら、旧版は要らなくなる、というふうに(8)は書いているのだから、まったく同じものならば、より強い理由によって、1冊は要らなくなる、というふうに考えることができるんだろうと思います。そういうのを「勿論解釈」というふうに言ってます。ここにこういうルールがあって、勿論これはダメだ[≒廃棄すべきだ]よね、と。

 

3 除籍基準の「客観性」

 「なんでこんなことしてたのか」。これはこの記録の読者の今の率直な思いかもしれない。ただ、これは直接には主催者が参加者に語りかけたことばである。このまま続ける。上のように解釈していけば、船橋市の除籍基準に不足はなく、これ以外の理由で除籍が必要になることはなさそうである。ここから主催者はまず基準の規範性・客観性の問い直しへ向かう。

 

  1. 主催者:このルールの対象になるものについては、除籍「しなきゃいけない」の? 除籍「できる」の?
  2. 生徒I:僕は、除籍「できる」、と思っています。

 

 続いて主催者がこんどは基準に当てはまらなければ、除籍「しちゃいけいない」のかと訊ねたところ、生徒Iは除籍「してはいけない」と応じた。

 

  1. 主催者:なんでなんだろうね? モデレーターは、「資料的な価値がなくなったから、捨てる」というんで、自分のなかでこういう基準を立ててたとしても、「別にこれも要らないよね」っていうふうに考えて捨ててもいい、さっきの、B君の考え方で言うと、だって、自分の本なんだから。
  2. 生徒I:図書館はいわば皆のものなので、たとえば、あるひとりの個人の価値観で、資料的価値がない、と判断した資料であったとしても、またほかの誰かの視点からすると、とても資料的価値のあるものだ、と判断される場合には、図書館として、一定の、ある価値基準っていうのを、――公平なものを産み出すことができないから。

 

 ここでまた主催者は問いをずらす。

 

  1. 主催者:そうすると、この(6)の基準って、客観的な基準なのかな?
  2. 生徒I:「内容が古くなり」ってところがポイントだと思っていて、たとえその資料的価値がどうかっていう判断がしづらかったとしても、客観的に内容が古くなったということは、事実として認定することができると思うので、その場合は廃棄の判断ができると思います。
  3. 主催者:皆さんのなかには、「そうだよね」というふうに思った人もいると思います。だけど、それと違う考え方、成り立っちゃうと思うんだけども、どうですかね?
  4. 生徒J:内容が古くなり、っていうのも主観的だと思います。たとえば、僕が、昨日出版された本も、今日のことじゃないから古いよねって言っても、それは別に論理として成り立つと思いますし。
  5. 主催者:うん。ここで挙がってる基準というのも、実は、評価の余地が入る話なわけですよね。

 

 除籍基準は客観性のあるものではない。主催者はこんどは次のように訊ねた。

 

  1. 主催者:なんで、船橋市の市立図書館では、内容が古くなったら捨てていいんでしょうかね?
  2. 生徒K:まだ地球の周りを太陽が回っていた、みたいな考えが支持されていた本があったとしたら、それはもう現代の科学で否定されている事実なので、その資料的価値がなくなってしまったというか、内容が古くなったっていう基準が成り立っているんじゃないでしょうか。
  3. 主催者:K君のような考え方は十分にありうるんですけれども、反論可能な主張だと思うんだけど、誰か?
  4. 生徒L:古いものは、それだけ希少価値がある、というか。古いものは希少価値があるから、資料的価値がないというわけではない。

 

 主催者は最初の問いへの応えは出ないままに、生徒たちの発話から議論を膨らませていく。

 

  1. 主催者:天動説の本を東京大学法学部では要らないんだけど、東京大学総合図書館は天動説の本は絶対捨てたりしない、と思うんですね。
  2. 生徒L:その本に書いてあることが事実かどうかとかには関わらず、その時代というか、そのときにおいて、その本を著した人がそう考えていた、っていう記録自体に、もう、価値があるので、古い本にも価値がある。古い本だからこそしかない価値があるっていうふうに考えます。
  3. 主催者:そうですね。今、実用的にみたときには役に立たない本も、資料的な価値はある、と。

 

 ここでは大学全体の図書館、大学のなかの部局ごとの図書館といった違いを例示しつつ、事件の舞台となった公立図書館の位置付けについての伏線が張られたように見受けられる。ここまで議論を展開させたところで、主催者は話題を本筋に戻していく。

 

4 船橋市が負けるに至った経緯・理由

 こう検討してみると、次のようになりそうだという。船橋市の除籍基準は、図書自体がなくなった場合と図書の資料的価値がなくなった場合に除籍できる、というものだ。そして、その基準の解釈・運用次第で除籍すべき図書は除籍できる。とすると、この基準以外で除籍するのは客観性を欠くことになりそうだ。しかし、その基準も絶対の基準ではなく、評価の余地がある基準でもある、と。

 主催者は、このような基準ではあるが、それに当てはまらなければ除籍できないとかりに考えるとして、と条件を付けて次のように訊ねた。この状況で起きた除籍で、最高裁まで争われて船橋市側が負けた根本的な理由はなにか、どうすれば負けなかったのか、と。

 

  1. 生徒M:除籍の要件をなにかしらゴネて、どれかにあてはまるとして主張すれば、まだ、ルールを破ったという点で、非難というか、されることはなかったかもしれないんじゃないかと思います。

 

 これを主催者は第一段目の方策と位置付けて次のように続けた。船橋市側としては、第一段として、除籍はルールに従ったものだったと主張する。もしその主張が認められなくても、図書館はルール外でも必要に応じて図書を廃棄する裁量権をもっていると主張する。この二段構えが必要だった。しかし一段目の主張が通らなかったのは、船橋市自体が除籍に関わった職員に対して減給処分をしており、市側もルール違反を認めていたから。とすると、次は二段目を主張するしかない。

 ただ、主催者はこのさきには進まず、別の視点からもうひとつ問いを立てた。除籍はルール違反だったが、船橋市としては損害賠償責任を負わされるほどのことではなかった、という議論はできないだろうか、と。

 

  1. 生徒N:[除籍は]裁量権の強い職員が勝手に進めてしまったことで、市の方針としては今後その本をもともとあった場所に戻します、みたいな判断をする、と宣言すればいいんじゃないんでしょうか。

 

 主催者はこれは裁判所の判断に影響を与えた可能性のある要因だと認めつつ、船橋市はそうした措置を講じていたのだが、それでも不法行為責任を問われたと指摘する。なぜか。あるいは次のような主張も考えられると言う。除籍するつもりはなかったが、手続きミスで除籍されてしまった。手続きミスなのだから著作者の人格的利益を侵害したとまでは言えないのではないか、と弁明をする。ところが、この事件ではその主張も通らなそうだ。なぜか。

 ここまで事実関係について細かすぎるほど議論し、思考実験を重ねてきたのは、次のことを示すためだったという。船橋市敗訴に決定的だったのは、「つくる会」に関係する著者やその著作物に対する「否定的評価と反感から」除籍が行われたと事実審段階で認定されたことがマイナスに評価されたことだったのだ、と。

 そうなると、不適切な除籍によって著作者の人格的利益が侵害されたと言えるか言えないか、という問題に行き着かざるをえない。そして、そこに除籍された図書が公立図書館の蔵書だったことが関わってくる、とされた。

 ここまでの前半部分で質問を募ったところ、生徒から次のような疑問が示された。

 

  1. 生徒O:この回、もともとは人格的利益の侵害だったと思うんですけれど、図書館職員がルール違反したことが、どうやって人格的利益の侵害になるんですか?

 

 主催者はそれがこの事件のポイントだと受けとめ、後半話題にしたいのはまさにその点であると述べ、休憩に入った。

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