◇SH1821◇インタビュー:一渉外弁護士の歩み(3) 木南直樹(2018/05/09)

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インタビュー:一渉外弁護士の歩み(3)

Vanguard Tokyo法律事務所

弁護士 木 南 直 樹

 

 前回(第2回)は、木南直樹弁護士が、田中・高橋法律事務所に入所されてから、米国人弁護士と英語で濃密な議論を繰り返すことにより、オン・ザ・ジョブで、国際金融法務の基礎を身に付けていかれた経緯などをお伺いしました、今回(第3回)は、木南弁護士から、米国留学とNY州司法試験の受験の経緯などをお聞きします。

 (聞き手:西田 章)

 

(問)
 それでは、次に、留学についてお伺いしたいと思います。田中・高橋には、当時からアソシエイトの留学制度があったのでしょうか。

  1.    当時の田中・高橋は創設して間もない事務所です。両先生からは「そのうち留学は行ってもらう」とは言われていましたが、留学制度と呼べるようなはっきりとしたものはありませんでした。

 

(問)
 木南先生が入所された後に、田中・高橋で留学制度を作る必要性が生じたのですか。

  1.    そういうことになります。ただ、留学については、不明確な点を残しながら、事が進んでゆくといった経過をたどりました。

 

(問)
 事務所が忙しくなる中で、アソシエイトを留学に出すのも大変ですよね。

  1.    私の弁護士登録1年目に、田中和彦弁護士は、アメリカの大手化粧品メーカーの顧問を引き受けることになり、その対応のために、留学帰りの23期の井上章子弁護士を中途採用しました。2年後には、29期の渥美博夫弁護士(現在は、渥美坂井法律事務所・外国法共同事業所属)も新人弁護士として勤務を開始しました。また、30期の採用も決まり、次第に陣容が整っていきました。

 

(問)
 アメリカに留学に行かれたのは、弁護士登録4年目ですね。

  1.    1978年の夏です。もともと留学の時期については明確には決まっていませんでした。登録後3年目1977年の夏に、突然、「来年、留学して下さい」と言われ、びっくりしたのを覚えています。その時点では一度もTOEFLを受けていません。そういう状況で出願書類を取り寄せるところからスタートしたため、準備不足は明らかでした。

 

(問)
 TOEFL受験も、今ほど、簡単ではなかったのですね。

  1.    当時、TOEFLは年数回しか実施されていませんでした。また、出願の締切りを12月末までとするロースクールが多く、ロースクールによっては出願までに1回しかTOEFLを受けられないことに焦りました。

 

(問)
 いくつぐらいのロースクールに出願されたのでしょうか。

  1.    12月末締切りの先はハーバードとUCバークレーの2つ、年が明けて3月まで受け付けてくれるジョージタウンとNYUの2つ、合計4校を出願しました。

 

(問)
 出願結果はどうだったのでしょうか。

  1.    年内出願の2つは落ち、年明けに出願した2つはなんとか合格することができました。2回目のTOEFLの結果が間に合ったことが大きかったと思います。

 

(問)
 ジョージタウンとNYUからの入学許可を得て、ジョージタウンを選んだ理由は何だったのでしょうか。

  1.    大きかったのは当時のNYの治安です。家族連れの留学のため、治安が悪いと言われていたNYに行くことには多少躊躇がありました。LLM修了後、できればクデールのNYで研修したいと思っていたので、LLMの期間は他の都市で生活してみたいという思いもありました。また、件の伊藤ゼミの大学院の先輩から「ジョージタウンは、弁護士の非常に多い首都であるワシントンDCにある有名なロースクールで、公法関係でも著名である」と聞いたことがあったのが記憶に残っていたこともあります。

 

(問)
 ジョージタウンではどのような勉強をなされたのでしょうか。記憶に残っているものがあれば教えてください。

  1.    アメリカ特有の法制度を学んでみたいと思って、統一商法典(UCC)を教えるコマーシャル・トランザクションを受講しました。UCCの第9編(動産・債権担保取引)と第3編(コマーシャルペーパー)を取り扱うクラスで、JD向けの大教室の授業です。他にも授業をとりましたが、このクラスが特に印象に残っています。

 

(問)
 何が印象的だったのでしょうか。

  1.    ミーハーな入り方ですが、ニューヨーク訛りの早口でスピーディーに講義を進める40代前半のプロフェッサーがとても恰好良かったですね。それに、UCCは、条文が簡潔明解に規定されており、法令集の立法趣旨の説明や注も丁寧で、とてもユーザーフレンドリーだと思いました。留学前、原則禁止から例外を継ぎはぎした、難解極まりない日本の外為法(改正前)に毎日のように接していた私には、母国語でない英語で書かれていても読みやすく分かりやすいUCCとの出会いは大袈裟に言えば感動的でしたね。

 

(問)
 英語での授業を理解するのに苦労はありませんでしたか。

  1.    はじめのうちは、わからないところもたくさんありましたが、必死でノートをとっていくうちに後から理解が追い付いてきました。知り合いになったJDにノートを借り、自分のノートを補完したりもしました。試験前の勉強には授業ノートが役に立つことは、日本での経験で実証済みですから。
  2.    JDの学生たちは、授業でも積極的に発言や質問をしていました。自説を滔滔と語り、早口でまくしたてるJDの学生もいましたが、なかには、頓珍漢な発言や的外れの質問もありましたね。

 

(問)
 当時の授業は、その後の渉外弁護士としての実務にも役立ったのでしょうか。

  1.    ジョージタウンでのUCCの授業とこのUCCの担当教授に指導教官になってもらって書いた日本の手形・小切手法とUCC第3編の比較法的分析をテーマに書いた論文作成はとても為になりました。直接の影響ではないですが、授業や論文作成の過程で身についた問題意識が、ファイナンスロイヤーとしての道を進むための基礎能力を培ったのではないかなと思っています。

 

(問)
 会話も含めて英語力が身に付いたということでしょうか。

  1.    ロースクール時代は、英文の教材を読んで、ペーパーに書くことがメインなので、会話力が向上するのは帰国後です。事務所にいた外国人の弁護士や外国の依頼者との打ち合わせ、さらに相手方との交渉で頻繁に英語を使うようになってからです。
  2.    むしろ、アメリカ法的な思考の基礎がわかり、アメリカの弁護士の発想やアプローチを学び、日本との違いを理解したことが大きかったと思います。

 

(問)
 LLM修了後は、アメリカで事務所研修もなされたのでしょうか。

  1.    1979年春にLLMを終えてから、NYに移って、NY州司法試験を受験しました。その後、多少苦労はありましたが、1979年8月から翌1989年2月までの約半年間、クデールのNYオフィスで研修をしました。

 

(問)
 苦労というのは、NYでの生活面でしょうか。

  1.    そうです。LLM修了後のアメリカでの滞在期間について田中・高橋との間でなかなか話がまとまらず、長期で住居を借りることができませんでした。コロンビア大学の教員がバケーションで不在にする夏休みの期間だけその住居を転借し、その後は、DCで知り合いになったアメリカ人の好意で、ニュージャージー州在住の知人を紹介してもらい、その人の家に間借りしてしのぎました(苦笑)。
  2.    また、ビザも、その更新を拒絶されました。拒絶理由の詳細は不明です。こうして、拒絶の行政処分に対する不服申立ても経験しました。ただ、この件は、結局、判断が下される前に、帰国することになりました。

 

(問)
 弁護士業務の研修ではなく、当事者としてアメリカで法的手続を実践されていたのですね(笑)。

  1.    そうです。ビザだけでなく、NY州司法試験を受験するためにも、裁判所に申立てをしました。というのも、当時はまだ外国弁護士に受験の特例を認めるNY州の裁判所規則がなかったため、外国弁護士にNY州司法試験の受験資格があるかどうかが明確ではありませんでした。そのため、NY州の控訴裁判所に、「JDは出ていないが、日本でこれだけの弁護士実務経験があり、アメリカのロースクールのLLMで24単位を取得したので、受験資格を認めるべきである」という趣旨の受験資格付与の許諾を求める申立てをしました。もっとも、一から申立書類を作成したわけではなく、前年にNY州司法試験を受験していた友人の松尾眞弁護士(現在は、桃尾・松尾・難波法律事務所)から、申立書類一式を借り受け、その先例をベースにして作成しました。私が受験した翌年には、規則が整えられて、外国弁護士にも受験資格が明文で認められることになったので、この申立てをしてまでNY州司法試験を受けたのは私たちの受験が最後だったと思います。

 

(問)
 NY州弁護士資格の取得は、留学前からの目標だったのでしょうか。

  1.    いいえ。留学に来るまでは、NY州司法試験受験は考えていませんでした。
  2.    しかし、クデールのチャーリー・スティーブンス弁護士が「せっかくLLMを取得したのだから、NY州司法試験を受けていったほうがいい」とアドバイスしてくれたので、受験を決意し、勉強を始めました。

 

(問)
 NY州司法試験の勉強は大変でしたか。

  1.    短期集中での勉強は確かに大変でした。バーブリ(司法試験受験講座)をビデオで受講する人も多いと思いますが、私はNYに引っ越していたので、ダウンタウンのホテルに設けられた会場に通ってライブで受講しました。短期間に、アメリカの連邦法とNY州法の随所で違う内容を詰め込んで覚えました。期間としては、4、5週間ぐらいでしたかね。科目毎にある電話帳みたいな教科書を必死で暗記したのを思い出します。

 

(問)
 バーブリの授業はいかがでしたか。

  1.    私は、コモンローの基本中の基本である契約法をジョージダウンでは受講せず、バーブリの授業で初めて勉強しました。元DJという名物プロフェッサーがいて、契約法を、60年代や70年代のヒット曲に絡めながら、3時間で教えてくれたのには驚きでした。

 

(問)
 NY州司法試験は難しかったですか。

  1.    論文は、下手な英語でも、論理的に書いていれば採点してもらえるのでそれほど苦労を感じませんでした。むしろ、短答式試験のマルチプルチョイスが厄介でした。問題文が長く、制限時間内に最後の問題まで辿り着かないのです。苦労したのを覚えています。

(続く)

 

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