簗瀬捨治弁護士インタビュー①
東大法学部生~弁護士登録~米国留学
T&K法律事務所 顧問
弁護士 簗 瀬 捨 治
(聞き手)西 田 章
『日本のローファームの誕生と発展―—わが国経済の復興・成長を支えたビジネス弁護士たちの証言』(商事法務、2011年)は、編集代表である長島安治弁護士により、「依頼者である内外の企業が求める真に役に立つ良質のリーガルサービスを合理的な対価で迅速且つ潤沢に提供していく」という「社会的責任を負う日本のビジネス弁護士達が戦後60余年、時代の要請に応じて大規模化と専門の深化を追い求めてきた足跡を、その当事者が書き遺しておこうとするもの」と解説されています。同書の中では、長島・大野・常松法律事務所が、2000年1月に、日本で初めて所属弁護士数100名を超える大規模事務所として誕生したきっかけが、1998年6月に東京で開催されたコロンビア・ロースクールの卒業生レセプションにおいて、常松・簗瀬・関根法律事務所の代表パートナーであった、簗瀬捨治弁護士が、長島・大野法律事務所のパートナーである竹内光一弁護士と立ち話をしたことにあるとのエピソードが紹介されています(同書に所収されている、常松健弁護士執筆にかかる「常松・簗瀬・関根法律事務所の軌跡―—ファイナンス弁護士の歴史」同書126頁)。
簗瀬弁護士は、渉外弁護士としては、クロスボーダーの証券発行から同じくクロスボーダーのジョイントベンチャー等のコーポレート全般及び紛争解決まで幅広い実績を残してきた一方で、常松・簗瀬・関根法律事務所ではマネージング・パートナーを務めて(1993年~1999年)、前記の事務所統合交渉をまとめて長島・大野・常松法律事務所ではチェアマンを務め(2000年〜2005年)、同事務所を退任した後には、オーケー株式会社では、代表取締役社長を務めるなど(2014年〜2016年)、経営者としても活躍されてきました。また、若手の弁護士の留学や海外実務研修の道を広げるために、事務所のチェアマンだった時期だけでなくその後も特別顧問(2006年~2014年)として長期にわたって、海外の大学や法律事務所とのコンタクトを深め、若手弁護士にアドバイスしています。そして、現在では、長島・大野・常松法律事務所出身の57期・58期クラスの弁護士が設立した、T&K法律事務所の顧問に就任して、若く有望な事務所の発展へのサポートをなされています。
(簗瀬弁護士の略歴については、T&K法律事務所のホームページのプロフィールをご参照下さい。)
http://tandkpartners.com/partner/簗瀬%E3%80%80捨治/
今回のインタビューでは、簗瀬弁護士にそのキャリアを振り返ってもらいながら、①東大法学部在学時代から弁護士登録を経て、米国留学と米国ローファーム研修を終えられるまで、②常松・簗瀬・関根法律事務所を設立されてから、長島・大野法律事務所との合併を経て、長島・大野・常松法律事務所のチェアマンを務め、そして、オーケー株式会社の代表取締役社長を務められるまでを語っていただいた上で、③今回、T&K法律事務所という、新しい事務所に顧問として参加された経緯と同事務所の今後の展望についてお伺いし、その結果を、3回にわたり、ご紹介させていただきます。
- 東京大学法学部に入学されたときには、既に弁護士を志望されていたのでしょうか。
- いえ、私は、北海道の小樽の高校で、当時は、司法試験を受けることは考えていませんでした。年が離れた兄が金融機関に就職していたので、むしろ、経済学に興味がありました。東大も、私法コースではなく、公法コース、2類でした。
- 官僚を志望されていたのでしょうか。
- そうですね、どちらかというと、法解釈よりも、社会の仕組みを勉強したいと思いました。社会の中に時代の成果を受けられない不遇な人々がいるとの思いもありましたから。キャリアとしては、役所に行くことや大学に残って研究者になることをぼんやりと考えていました。
- その方針が変わったのは何がきっかけだったのでしょうか。
- 大学で勉強をしていると、世の中、官僚が知恵をこらしていろんな制度を作っても、そこから漏れて救済されない人もいる、と感じるようになりました。そこで、むしろ、個別の問題、目の前の事件の解決に一生懸命に取り組む法曹の仕事のほうが自分に向いているような気がして、3年生に進級するときに1類に変更しました。
- 司法試験の勉強は、どのようにされたのでしょうか。
- 当時は、大学の授業を真面目にしていれば大丈夫でした。先生方から指定された勉強、たとえば、我妻榮先生の民法講義を読んでおくといい、と言われたら、言われた通りに実践しました。
- 司法試験に特にご苦労はなかったのですか。
- 択一は心配でしたね。学部の授業を受けるだけでは足りない部分があるので、択一は自習をしました。当時は予備校もなかったので、試験直前に、受験生仲間10数人で集まりました。そして、択一の過去問を、所定時間で解いてみて、互いに採点し合いました。
- 受験したのは一回だけですか。
- 自信があったわけではありませんが、当時の習わしで学部4年生のときに受けて無事に受かりました。
- 学部の授業で面白かった科目や印象に残っている教授はいらっしゃいますか。
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面白かった授業はたくさんあります。まず、芦部信喜先生の授業は、歴史的な観点からの憲法の成立が語られていて面白かったです。
また、民法はどの授業も良かったですが、川島武宜先生の授業は、教科書的ではないところが面白かったです。現実の社会に生きているルールとは何か、実際に物事を決定するときに根拠となっている社会的サンクションは何かを考えさせられました。
その他にも、石川吉右衛門先生の労働法も面白かったですし、留学から戻られたばかりの塩野宏先生の租税法も、キレが鋭い授業でした。学部時代の教授には恵まれたと思います。 - 当時から、海外で仕事をしたい、という希望があったのでしょうか。
- それはありませんでした。周りには、ESSなどの英語を勉強するクラブに入っている同級生もいましたが、私は、海外で働くことはまったく考えておらず、そういうクラブにも入りませんでした、
- 学生時代から弁護士志望100%だったのでしょうか。それとも裁判官も考えていたのでしょうか。
- 学生時代は、弁護士になろうと思って司法試験を受けました。司法修習中に、任官にお誘いいただきました。
- 司法研修所で魅力的な裁判官に出会われたのですか。
- はい、3期の田尾桃二裁判官です。田尾裁判官は、要件事実論の草分け的な存在で、田尾裁判官から教えていただいたことはとても面白かったです。
- でも、結果的に、任官の誘いは断られたのですね。
- 修習2年目の9月に、田尾裁判官に「弁護士になりたい」と告げました。なまの世の中に直接触れたいと考えていました。すると、田尾裁判官から「弁護士になるんだったら、渉外案件を扱っている事務所がある」と言われて、ブラウン・守谷・帆足の帆足先生を紹介していただきました。守谷先生は、海事の第一人者として有名ですが、帆足先生は、タックスで有名でした。
- 渉外事務所を選ばれた理由は何ですか。
- そうですね、ひとつは、あたらしいスタイルの仕事だ、ということに興味を引かれました。また、「もう少し厳しい修行を受けたい」という気持ちがあったので、「だったら、英語をもう一回改めてやるか!」と。挑戦することで、毎日、充実した生活が送れると思いました。
- 証券業務にも関心はあったのでしょうか。
- はい、ブラウン・守谷・帆足を訪問した際に、日本企業が、海外でドル建ての転換社債を発行した際の一連の書類を綴ったファイル、いわゆる「バイブル」を見せていただきました。それを見せてもらって、「こういう仕事もなかなか面白そうだ」と思いました。
- 高校時代から、金融機関に就職されたお兄様の影響で経済学にも興味があった、と仰っていましたね。
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母からは、「大正時代の小樽は『あそこに行けば、飯が食える』と言われるぐらいに繁栄していた」ということを聞いていました。それが衰退して観光に力を入れないとならないようになりました。
そんな街に育ったことからも、経済活動の根幹となるファイナンスには興味がありました。留学するころに考えていたことですが、現代の経済構造の中で、その血液とも言える資金がフェアに流れるかどうかが、経済が、即ち社会が、公正かどうかを決める。資金の流れの公正さを支える仕組みは、資金の出し手にとっても、受け手にとっても重要な分野だと考えていました。 - 英語学習については、何かご準備はなされたのでしょうか。
- ブラウン・守谷・帆足に行くと決めてから、テレビを買って、英語講座を聞いたり、英会話学校にも行きました。事務所に入ってからは、四谷にある、日米英会話学院に通いました。日米英会話学院では、優等生ではありませんでしたが、2年コースを半年で卒業することができました。
- 事務所の仕事と英会話学校との両立は大変ではなかったですか。
- 仕事を終えて、午後6時から3時間の授業を受けました。英会話のコースを卒業した後は、秘書課の英文タイプのコースにも入りました。ただ、弁護士1年目の秋になると、さすがに忙しすぎるようになり、英文タイプコースは、指の使い方が終わったところで通えなくなり、中退してしまいました(笑)。弁護士になって朝のラッシュアワーの満員電車で事務所に通うようになり、満員電車の中で充実した幸福感を感じたことを覚えています。
- 事務所では、帆足先生との仕事が多かったのですか。
- 帆足先生から仕事をもらうこともありましたが、むしろ、ブラウン先生と仕事をご一緒することが多かったです。ブラウン先生は、様々な仕事を受けていたので、弁護士として良いトレーニングになりました。弁護士1年目に、外国人の相続事件を担当したこともありました。「紀伊国屋で小切手を受け取ってもらえな!」と電話で訴えられてきた奥様の名前を今でも覚えています。「キニキニヤ」と聞こえて戸惑いました。
- 仕事をしているうちに、米国留学の希望が芽生えてきたのですか。
- 事務所の先輩は、留学経験者ばかりだったので、米国に行くのは、自然な感じでした。
- 留学は、事務所の仕事の一環として送り出されたのでしょうか。それとも、個人として行かれたのでしょうか。
- 留学は、事務所を辞めて行きました。ここでとどまってもう一回勉強をし直そう、職業としてどういう分野に取り組むかも一から考え直そうと思いました。必ずしも、弁護士にとらわれることもない、とすら思っていました。
- 留学の費用負担は大変だったのではないですか。
- 幸いにも、フルブライトの奨学金を受けることができました。ただ、当時は、結婚して子供もいたのですが、米国のロースクールに通っている1年目は単身で米国に渡りました。家族を米国に呼んだのは、2年目に、ローファームで給料をもらえるようになってからです。
- 留学先として、コロンビア大学のロースクールを選ばれた理由は何ですか。
- コロンビア大学のロースクールでは、米国の証券取引委員会のチェアを務めたWilliam L. Cary先生が教鞭をとられていたので、Cary先生の授業を受けたくて、コロンビアを選びました。
- 実際に授業を受けることができたのですか。
- はい、証券法・証券取引所法の授業を受けて、お話をさせていただくこともできました。連邦の証券関係法を厳しく適用されて、「連邦会社法」の形成に重要な役割をはたした方ではありましたが、人柄はとても柔らかい先生でした。1983年に亡くなられてしまいましたが。
- それ以外でも、コロンビアの授業は面白かったですか。日本人学生にはハードな印象もありますが。
- コロンビアでの勉強は面白かったですが、確かに、とても忙しくて大変でした。初めは英語を読むスピードも遅かったので、大量の文献を読むために、週末も、翌週の授業の予習で潰れてしまいました。
- どのような科目を履修されたのでしょうか。
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当時、「会社を巡る法律を全部勉強したい」という基本プランを自分で立てたので、会社法、1933年証券法、1934年証券取引所法、ビジネス不法行為、ノウハウとか著作権の知的財産法、連邦税法と、かなりたくさんの科目を取りました。留学生の世話をしてくれていたアドバイザーのゲルホーン教授からも「お前、こんなに取って大丈夫か?」と心配されたほどです。
その代わり、憲法とかコントラクトとか、基礎的な科目をまったく取れませんでした(笑)。 - 簗瀬先生が留学された時期は、まだ留学生にNY州司法試験の受験が認められていなかった頃でしょうか。
- はい、受験できませんでした。丁度、フランス人留学生が「5年の居住要件を求めるのは合理的でない差別だ」と主張して、訴訟を起こした頃だったと思います。でも、おかげで、NYバーの勉強をせずに済みました(笑)。
- 米国滞在2年目は、Jones Dayで研修されたのですね。
- 当時からブレークモア法律事務所にいらっしゃった常松健弁護士のご厚意で、ブレークモア先生を通じて、Jones Dayを紹介してもらいました。
- 常松先生は、司法修習のご同期ですよね。
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はい、常松弁護士は、20期の東京修習2班で一緒でした。ただ、年齢も上で色々なことを経験されて修習に来ていらっしゃった常松先生は、同期の中でも抜きん出た存在でした。
そして、弁護士になってからも、ブラウン・守谷・帆足のオフィスは、ブレークモア法律事務所の隣にあったので、仲良くしていただいていました。 - それが、留学から帰国した後にブレークモア法律事務所に参画することにつながるわけですね。ところで、Jones Dayのどこのオフィスで研修をされたのですか。
- オフィスは、Jones Dayの本社であるクリーブランドです。
- 日本人弁護士が少なそうな場所ですね。
- はい、日本人弁護士はいなかったし、米国人以外の弁護士は、ほぼ見かけませんでした。
- 米国でのローファーム研修は、日本企業絡みの仕事を手伝うことが多いと聞くのですが、クリーブランドにも日本企業案件があったのですか。
- いえ、日本企業はまったく関係なく、普通に、米国の新人弁護士と同様に扱われて、色んな事件を担当しました。
- ローファーム研修は暇なものだとばかり思っていました。
- 富裕層のエステイトのタックスの申請書を書いたり、銀行が独禁法で訴えられている、ということで、訴訟に関連するテーマのメモランダムを書いたりもしました。1週間ぐらい、事務所のライブラリに通ってメモを書いたのは覚えていますが、訴訟でどのように使われたのかはわかりません(笑)。
- 証券関連の仕事も担当されたのでしょうか。
- 会社がセカンダリーオファリングをするなどの際に、ブルースカイ法と呼ばれる、州の証券規制を調べる仕事もやりました。関連する州の規制をまとめた資料は「ブルースカイ・メモ」と呼ばれますが、30州にまたがれば、30州の規制をまとめたメモをディーラーに渡すと、彼らはそのメモに基づいて売出しをします。もちろん、売り出しのために届け出書(目論見書がその一部になります。)も作ります。印刷所で打ち出した売り出しの届出書を持ってジェット機に飛び乗ってワシントンまで届出に行く、その届出書の最終校正を印刷所の人と一緒にやったこともありました。証券業務は、チームでエフェクティブに対応するものだ、ということを目の当たりにしました。
- Jones Dayではお客様扱いではなかったのですね。
- すごくオーガナイズされたチームでした。常に、ぼくがどんな仕事に携わっているかを把握してくれていて、インタビューでは「どんな仕事をやりたいか?」も聞いてくれて、終わった案件についても「どうだったか?」と感想を尋ねてくれました。
- 忙しさはどうだったのでしょうか。
- それが、忙しいのに、「夜中まで働く」というスタイルを一般的にはしていませんでした。急ぐ時には、大量の弁護士を投入するので、ものすごくうまく出来ていると思いました。金曜日の夕方はみんないつも飲んでいました。というか、ランチの時から飲んでいたこともありました(笑)。いい時代でしたね。
- 仕事にやりがいもあったのですね。
- 任せてもらえるのはうれしかったですね。証券会社からも、ぼくに直接に電話がかかってきて、「このメモはどういう意味だ?」という質問が来ました。そして、「米国では、弁護士の言う通りに案件が進められるんだ」ということを知りました。その分、プロとしての責任も取らされるということも感じました。弁護士の意見として「かもしれない」という曖昧な言い逃れは許されておらず、「やっていいか? 悪いか? どっちなんだ?」と問われます。弁護士がダメだというものを、ビジネスがやってしまったら、それはビジネスの責任。その部分では、米国の実務ははっきりしている、と思いました。だから、競争も激しいですよね。
- 色々な法分野のパートナーと仕事をされたのですね。
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そうですね、コーポレートのパートナーとも、エステイトのパートナーとも仕事をしました。当時は、Jones Dayの3代目マネージング・パートナーのJack Reavisがいらっしゃいました。そういえば、クリスマスにReavisから呼ばれて、ボーナスを貰ったことを思い出しました(笑)。
ぼくのメンターは、Allen Homesでしたが、彼は、その後、4代目のマネージング・パートナーになって、事務所を海外へも拡大させました。 - 事務所の雰囲気はどうでしたか。
- すごくオープンでしたね。若い弁護士の意見をとてもよく聞いて採り入れていましたし、問題が起こると、その情報をアソシエイトにも回して共有していました。ひとつの例として、労災を扱っている、10~20名規模のチームがあったのですが、若手から「いつも同じことばかりやって面白くない」という意見が挙がり、その事務所のプラクティスを廃止すべきかどうかという議論に発展し、本当にそれを廃止した、ということがありました。そういう議論の経緯が記載されたメモが、1年生扱いのぼくのところにも回ってくる、というのはとても驚きでした。
- 大事務所でも、一部の経営陣だけで方針を決定しているわけではないのですね。
- 事務所の方向性として、これからやるべきなのは、どの分野か、若い弁護士がそれを楽しんでやれるかどうか、というアンテナを立てながら検討しているのは、事務所として大事だと思いました。足許の売上げだけで判断するんじゃない。将来、何が伸びるか。所属する弁護士が一生懸命に取り組める仕事じゃないと、伸びないでしょ。その感覚は、もしかしたら、ウォールストリートの事務所とは、ちょっと違うかもしれない。東部の、エスタブリッシュされた地域だったから、金融関係だけでなく、幅広い産業を扱っていたからかもしれません。
- Jones Dayでの研修は、とても有意義だったのですね。
- はい。コロンビアのLL.M.の卒業式の翌日に、クリーブランドに赴任したのですが、その時に、Cary先生と立ち話をしたら、Cary先生が「自分がキャリアをスタートさせたのも、クリーブランドのSquire Sandersだった。」「クリーブランドには、Squire SandersとJones Dayがあるが、Jones Dayのほうがいい事務所だ」と笑って言ってくださったのを思い出します。当時は、「本当かな」と疑いましたが(笑)。結果は、Jones Dayでとても良い経験を積ませてもらいました。
- Jones Dayにはどの位の期間、働かれたのですか。
- 当初は、1年間の予定でしたが、結局、1972年の6月から12月までの約半年で帰国することになってしまいました。ブレークモア先生がクリーブラントにいらっしゃって、「東京の仕事が忙しすぎるので、うちに来て手伝ってもらえないか?」という依頼を受けたので、それに応えるために、年末に帰国することにしました。
(続く)