◇SH2183◇「会社は誰のものか」をあらためて考える(2) 梅谷眞人(2018/11/08)

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「会社は誰のものか」をあらためて考える(2)

富士ゼロックス株式会社
知的財産部マネジャー

梅 谷 眞 人

 

3. 目的は何か

 それでは、命題の立て方の論理的曖昧さ、実定法解釈論との不整合があるにもかかわらず、株主は会社の所有者であると主張する論者は、誰の何の利益を守るために、会社は誰のものかという議論を展開しているのだろうか。次のような疑問が湧き上がってくる。

  1. ⑴ 誰が、如何なる目的で、「株主は会社の所有者である」と主張しているのか(Why?)[1]
  2. ⑵ 会社が誰のものかを明らかにすると何があるのか(so what!?)。

 例えば、(a)会社の存在目的に照らして最適の統治機構を設計できるのか、(b)会社の持続可能性(Sustainability)を確保するための行動指針が得られるのか、(c)経営者の行動を規律する会社統治(Corporate Governance)のあり方、すなわち企業価値を左右する意思決定システムとしてどの機関・制度が適切かを決められるのか、(d)経営者が考慮すべき要素や守るべき価値観を明確にして、経営目標として複数の利害が相反するときに、誰の利益を優先するかの判断基準となるのか、(e)株主利益最大化のためにはそれ以外のステイクホルダーの利益を犠牲にしても許されるという正当化理由になるのか、(f)経営失敗の責任を最終的に誰に負わせるかを決められるのか、(g)株主による経営監視が一定の条件のもとで企業価値を高めることになるのか。

 経営学の観点からは、「会社はだれのものか」という所有権の帰属について議論するよりも、株主のみならず、従業員、消費者、顧客、会社債権者、地域社会といったステイクホルダーも含めて、「だれの利益を考えるのか」に焦点を当てるべきであるという指摘もあり、議論の目的を意識して利益衡量の基準を追求することが、正しい方向を示していると思う[2]

 

4. 命題を立て直す

(1) 経済学の観点から資源の最適配分システムとしての会社を見る

 東京大学で経済原論の講座を長年持ってきた宇野弘蔵教授は、株式会社をどのように見ていただろうか。株式形式になった産業資本は、配当を利子として資本還元される擬制資本を基準として、商品化され、資本市場で売買される、資本市場に投下される資金は、投機的利得と共に利子所得を得るための投資となる。そこでは、利子所得者化した一般の普通株主資本家と、会社の支配権を握って他人資本をも自己資本と同様に支配する大株主資本家が分離する[3]

 株主利益の最大化は、社会的厚生を最大化するのだろうか。短期的に現在の株主利益の最大化を目指せば、資源の最適配分がなされるという仮説は、前提条件を明らかにして適用範囲を限定すれば、特定の時代や社会において、妥当な結論に至るケースもあるであろう。しかし、一般論として「株主が会社の所有者である」のだから株主利益が第一優先であると定式化することは、社会科学としても、社会を動かす実践的知恵としても、疑問なしとしない。

 営利法人である会社は、そもそも何なのか。会社は、遊休資金を生産資本に転化する仕組みであり、金銭出資(または現物出資)した、物的資本の拠出者が「株主」である。経営者や従業員が拠出された物的資本を使って、経営能力、従業員、取引先との関係(暖簾)などの人的資本を備え、人類に有益な財やサービスを提供して利潤を追求する活動をして、株主に利益を還元するシステムである。

 会社の存在価値は、個人では不可能な事業を営むために、リスクを分散し、株主が所有する遊休資産を社会の生産資本に転嫁する仕組みを人工的に創ることによって、人類に必要・有益な財やサービスを組織的に生み出すことにあると思う。資本主義社会においては、「会社の経営者は、企業価値の最大化、株主利益の最大化を目指せば、結果的に資源の最適配分がなされ、社会の経済的厚生の総和も最大になる」という経済理論に基づいて、「株主は会社を所有している」と断定することは、実定法解釈論としては誤っていると思うし、その経済理論も、合理的である時代もあるだろうけれども、現時点で正しいとは限らない[4]

 会社は株主のものであることを強調して、株主利益の最大化という価値判断を最優先するならば、株主への配当を増やし、株式市場で取引される株式時価総額を増やすことが経営指標になる。それをあまりにも短期的に、例えば四半期毎に手段を選ばず、会社の物的および人的資本が劣化して競争力を失う結果になる固定費削減に徹すれば、どうなるか[5]

 例えば、資本金1円(会社を設立できる)で銀行借入金1億円の事業会社があったら、株主が出資して金を出したのだから、その使用・収益・処分は1円出した株主が所有者として決めるべきであるといえるのだろうか。この場合、1円の残余財産請求権を理由に、株主が所有者だと主張して、株主の利益を最優先すべきなのだろうか。それが社会の経済的厚生を最大化するという因果関係が社会科学として証明されているのだろうか。

食料やエネルギーを供給する会社が、生産縮小が株主利益を最大化すると判断したら、餓死者を出してよいのだろうか[6]。より効率的な代替的供給源が存在する時代ならばよくても、地球全体で過小生産のときにも正しいとは思えない。成長無限大の仮説や生産力が無限大に増加可能な経済モデルが怪しい。そして、21世紀の、利子率ゼロ、利子率を上回る投下資本収益率を得られる投資先の減少、成長神話の終焉も指摘され、さらには、そもそも資本主義というシステムそのものに限界が示唆されている現時点において、株主利益を最大化が資源の最適配分をもたらすという経済理論がはたして妥当するのか否かも、検証されていない。資本主義システムが想定する資源最適配分をもたらす前提条件が怪しくなってきているのである[7]

(つづく)


[1] 「会社は誰のものか」という問題は、「意欲する人間」の社会政策的な価値判断であると思うのだけれども、「思考する研究者」(マックス・ヴェーバー(富永祐治ほか訳)『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』(岩波書店、1998)参照)の科学的理論であるかのごとく誤解されていないだろうか。

[2] 加護野忠男「よい経営はよいガバナンスから生まれる(上)」ダイヤモンドオンラインHP(http://diamond.jp/articles/-/69036?page=2)参照。

[3] 宇野弘蔵『経済原論〔文庫版〕』(岩波書店、2016)238頁~239頁参照。なお、近代経済学において、個人投資家である家計にとって株式を買うことは、金融投資(financial investments)である。その資金は、会社が物的資本(生産資本)や人的資本(労働者)の購入に使われる。会社が生産資本を調達することは、企業の資本財投(capital goods investments)と呼ばれ、後者をマクロ経済学で投資という。

[4] 「神の見えざる手は無い。アダムスミスは間違っている。」丸山俊一= NHK「欲望の資本主義」制作班『欲望の資本主義――ルールが変わる時』(東洋経済新報社、2017)34頁に紹介されているジョセフ・スティグリッツ教授の意見を参照。

[5] 岩井克人『会社はだれのものか』(平凡社、2005)61頁参照。

[6] 市場機構では解決困難ないしは解決不可能な「公共的経済」の問題でもある。

[7] デヴィッド・ハーヴェイ著(大屋定晴ほか訳)『資本主義の終焉――資本の17 の矛盾とグローバル経済の未来』(作品社、2017)296頁以下に理論上の複利的成長と現実におけるその限界についての論考がある。また、水野和夫『資本主義の終焉と歴史の危機』(集英社、2014)参照。これらの問題意識の源流には、資本主義が避けることができない欠陥(資本が生産も増殖もできない主体的人間自身の労働能力を、その他の生産物と同様に商品として扱う仕組みの根本的な無理)を感じる。宇野・前掲注[3]265頁〔伊藤誠〕の解説参照。

 

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