◇SH2185◇「会社は誰のものか」をあらためて考える(3・完) 梅谷眞人(2018/11/09)

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「会社は誰のものか」をあらためて考える(3・完)

富士ゼロックス株式会社
知的財産部マネジャー

梅 谷 眞 人

 

4. 命題を立て直す

(2) エージェンシー問題について

 米国において、会社法の目的は、agency problem(代理人問題 ―株主対経営者、支配株主対少数株主、債権者対株主の間にそれぞれ情報格差と利害対立(conflict of interest)―)をいかに解決するか、agency cost(代理人コスト/monitoring cost等)をいかに削減するかであるとするならば、会社は株主のものであると言う主張は、何を意味しているのだろうか[1]

 アメリカの各州の会社法において、Principal(本人・委託者)であるcorporation(会社)に対してagent(代理人・受認者)の立場にあるdirectors(取締役)は[2]、株主が会社に拠出した財産を自己または第三者の利益を図るために使うことなく、専ら会社の利益のために忠実かつ誠実に行動する義務、すなわちfiduciary duty(信任義務)を負っている。そして、agentにはprincipalの利益となるように会社の価値[3]を増やす適度なincentive(外的動機付け)を与えている。日本の会社法においても、取締役には善管注意義務と忠実義務を負わせている[4]。つまり、「会社は株主の所有物ではない」けれども、経営者に対して「会社は経営者のものではない」のだから、個人の利益追求と矛盾する倫理的行動を経営者に要求することに意味があるのだと思う。

(3) 経営者支配から株主支配への流れ

 かつてバ―リー・ミーンズが「所有と経営の分離」を指摘した時代には、現代企業における経営管理の質的高度化がもたらした資本家の後退、専門経営者層の台頭が指摘された。株式が高度に分散化した結果、ごくごく少数の株式持ち分で、会社を支配できるようになった、というより、会社所有者たる株主が経営を委任した経営者が自由に株式会社を支配することができるようになったわけである[5]

 その後、物言う株主が力を増し、株主支配が復活する時代となった。その背景には、株式会社は株主の所有物であり、株主のために運営されるべきという思想があるはずで、株主配分重視経営は、企業の蓄積危機打開を目的に進められた規制緩和を背景としたM&A の増加とストック・オプションを通した経営者の自己利益追求によって生じたものであると指摘する論者もいる[6]

 株主の監視と意見によって、経営が良くなる会社もあると思う。物言う株主が提示する情報が投資家を動かし、非効率な企業から資金を移動し、新しい社会に適合する新しい事業を投資先として選択させる効果もあろう。しかし、一握りの機関投資家や経営者の自己利益追求の結果として、今の社会はどうなったのだろうか。

 スティグリッツ教授は、現在の株主利益の最大化のために他の目標を二次的なものとする短期的利益追求の株主第一主義について[7]、長期的な株主利益に資するはずのイノベーションや熟練労働者や先行投資に向かわず、投資判断をゆがめることを指摘している[8]。短期的に株主以外の利益を犠牲にする経営は、経営者に異常に高い報酬という「インセンティブ」を与え、株主に利益を傾斜「分配」すること、そして、その経営を正当化する「会社は株主のものである」という考え方によって、株主利益と「トレードオフ」関係にあった他の利益は、どうなったのだろうか。

(4) 裁判規範と比較考量における価値の序列について

 経営学の理論については、その専門家に議論を委ねるが、法律学としては、おそらく、「会社は誰のものか」という議論は、ステイクホルダー(利害関係者)の間の利益保護の優先順位ないし序列に関する価値判断を問う議論なのであろう。安達弁護士の指摘に強く示唆された結論だが[9]、法律学において、この命題は、裁判官は複数のステイクホルダーの利害が相対立した事件の場面で、「会社の経営者が、誰の利益を優先し、誰の何の利益を犠牲にして意思決定した」ことをもって、経営判断が合理的であり適法であったという判決を書くべきかという判断基準の問題として、明確に概念を定義して構成された命題に置き換えられ、その判断基準を精緻化していく方向に進むべきではないのかと考えている。

(完)



[1] エージェンシー・スラック(agency slack)とは、エージェントが、プリンシパルの利益のために委任されているにもかかわらず、プリンシパルの利益に反してエージェント自身の利益を優先した行動をとってしまうことである。エージェンシー問題については、宍戸善一『動機付けの仕組としての企業――インセンティブ・システムの法制度論』(有斐閣、2006)29頁、101頁、182頁などを参照。なお、岩井克人『会社はだれのものか』(平凡社、2005)30頁は、取締役が法制度として会社に必須の機関であって、会社の代表取締役が会社を代表して当該取締役本人と契約を締結するわけではないことを指摘して、会社又は株主と経営者の間の関係が「契約」関係ではなく、「信任」関係であることに注意を喚起している。信任関係は、契約の義務を事前に具体的に特定することができない関係であり、取締役には合理的な範囲で経営判断の裁量権があるなど、委任契約に関する民法の規定が準用されるけれども、通常の委任契約とは若干異なる法律関係である。

[2] Directors(取締役)のみならずOfficers(執行役員)もまた信任義務を負うとされている。See Gantler v. Stephens、 965 A.2d 695 (Del. 2009). The same fiduciary duties that apply to directors of a corporation also apply to its officers.

[3] 会社の価値とは、その会社の資産を経営者がもっとも効率的に管理したときに、将来にわたって生み出される利益の割引現在価値である。岩井・前掲注[1]59頁参照。

[4] なお、最大判昭和45・6・24民集24巻6号625頁は、商法(旧法)254条の2の規定は民法644条に定める善管義務を敷衍し、かつ一層明確にしたにとどまるのであって、通常の委任関係に伴う善管注意義務とは別個の、高度な義務を規定したものとは解することはできないと判示している。

[5] A.A.バーリ=G.C.ミーンズ(森杲訳)『現代株式会社と私有財産』(北海道大学出版会、2014)。

[6] 柴田努「経営者支配の構造変化と株主配分の増加」一橋大学博士(経済学)論文(2016)(https://portal.shojihomu.co.jp/wp-content/uploads/2018/11/eco020201500603.pdf)参照。
 同論文の85頁は、労働者を犠牲にして増大した利潤は、株主配分に振り向けられ、雇用の拡大や労働条件の改善につながっていないことも指摘する。

[7] トーマス・セドラチェク(村井章子訳)『善と悪の経済学』(東洋経済新報社、2015)200頁参照。長期継続的な協調関係の重要性を初めて示したのは、隣人愛や罪の赦しといった言葉を用いているが、イエス・キリストである。クリスチャンが財界の主流を占めるアメリカ合衆国において、短期的に株主のみの利益を追求し、株主以外の隣人の利益を顧みないことへの疑問を招かないのだろうか。
 しかし、おそらく、プロテスタントの資本家は、ゴールなき利潤極大化に迷いがないのかもしれない。唯一絶対の神が救済する人間は予定されており、誰にも解らない。天職で働き、祈る。救済される自信がないまま、ゴールがなく、最後の審判まで働き続け、利潤を極大化し続けることが、選ばれし者である可能性が高い正しい行動様式なのだと信じているかもしれない。小室直樹『日本人のための憲法原論』(集英社インターナショナル、2006)103頁~133頁、172頁~179頁、橋爪大三郎=大澤真幸『ふしぎなキリスト教』(講談社、2011)295頁~303頁参照。

[8] 丸山俊一= NHK「欲望の資本主義」制作班『欲望の資本主義――ルールが変わる時』(東洋経済新報社、2017)87頁~96頁のジョセフ・スティグリッツ教授の意見を参照。

[9] 安達理「会社は誰のものかではなく、関係者の利害を調整する器」法と経済のジャーナルHP(2014)(http://judiciary.asahi.com/corporatelaw/2014100800001.html)参照。

 

 

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