法のかたち-所有と不法行為
第八話 日本の江戸・明治時代の土地所有関係
法学博士 (東北大学)
平 井 進
5 大坂堂島の米先物市場
第一話において、法関係は観念的になることによって発達してきたと述べたが、(無限の所有権などの概念と対比して)この観念は「必要かつ有益」である限りにおいてそうである。[1]
ヨーロッパ中世において遠隔地貿易のために行われていた為替は、日本においても、地方の所領から京畿の荘園領主に送金することなどのために、鎌倉時代末期頃(13世紀末-14世紀初)から見られるようになり、室町時代から商業取引に広く用いられるようになる。また、商業手形が進化して、室町末期頃(15世紀末)に伊勢の商人たちが羽書という紙幣を発行し、その信用により流通するようになる。[2]
戦国時代から、大名たちはその領内から米を大津・大坂に廻送して換金し、江戸時代初の17世紀前半には米市が形成されていた。前述の豊臣秀吉の石高による封建制も、そのような経済を背景としていた。
さて、大坂の米市場においては、各藩の蔵元が蔵米を売るにあたり、仲買人が出す敷銀の預り証として米手形(後に米切手)を発行していた。その期限(30日など)内の蔵出について、実際には(米の収穫や輸送等の事情により)遅れることがあるため、期限の前にその手形が流通するようになり、証券化する。[3]また、蔵元はその在庫を越えて(空米の)手形を発行することにより資金調達ができるために、それをしばしば行っていた。[4]
帳簿上で米の売買勘定を相殺することは17世紀末頃から始まっており、さらに将来の作柄を含めたリスクを回避するために先物取引が行われるようになる。また、相対の決済を簡素化して、ある者が複数の者と取引をしたときにその者のすべての売買を相殺し、誰との取引ということを捨象した差益を市場の支配人と決済するような市場システムとなる。このような米取引市場の発達に対して、1730年に大坂堂島において米会所が公認され、現物と先物のいずれの取引も認められ、大坂米市場は金融市場としても発達する。[5]
大坂の米先物市場は、先物市場として世界初とされる。今まで述べてきた法関係の観念性が、所有に関しては空間的に隔たっていて占有できないものを対象にしていたのに対して、先物取引は時間的に隔たる将来のことがらに対する支配を対象にする。さらに、大坂市場では、上記のように複数者の取引を一つの差益にまとめた観念によって管理していた。[6]
以上で見てきたように、近世の日本においては、法関係に関して公法・私法いずれにおいても、世界的な水準にある領域があった。しかし、1930年頃から講座派マルクス主義などが日本社会の前近代性・後進性を主張するようになり、その反動として、前述に関連して「国体の本義を明徴にする」という動きが起こる一つの要因となったのである。[7]
[1] 「必要性(necessitas)と有益性(utilitas)」という概念は、13世紀のフランシスコ会のピエール・ド・ジャン・オリーヴィ(Pierre de Jean Olivi)が商業活動を肯定するにあたってとった観点であった。参照、大黒俊二『嘘と貪欲-西欧中世の商業・商人観』(2006, 名古屋大学出版会)20, 88頁。
[2] 参照、作道洋太郎『近世封建社会の貨幣金融構造』(塙書房, 1971)49-52頁。
[3] 米切手は、蔵屋敷が、その所持人の請求により、何時でも、切手と引換に蔵米の表示数量を交付することを約束する流通性のある有価証券である。参照、島本得一『蔵米切手の基礎的研究』(産業経済社, 1960)6-8頁、高槻泰郎『近世米市場の形成と展開-幕府司法と堂島米会所の発展』(名古屋大学出版会, 2012)71頁。
[4] 筑後藩の騒動の例では、年の蔵米の約10倍もの切手が発行されたという。参照、高槻・前掲, 75頁。
[5] 幕府は米価の調整をその買上だけでなく、大両替商に対する金融政策によっても行うようになる。参照、同上, 86-92頁。
[6] 参照、同上, 34-35, 110頁。
[7] 参照、安丸良夫『近代天皇像の形成』(岩波書店, 1992)278-279頁。「近代の超克」論などの動きと法学研究のあり方の関係は重要なところであるが、ここでは立入らない。