◇SH2208◇著者に聞く『はじめて学ぶ社外取締役・社外監査役の役割』松山遥弁護士① 西田 章(2018/11/26)

法学教育

著者に聞く『はじめて学ぶ社外取締役・社外監査役の役割』松山遥弁護士①

日比谷パーク法律事務所
弁護士 松 山   遥

(聞き手)西 田   章

 

 弁護士にとって、本を出版することは、顧客誘引の「営業ツール」です。法改正が近付くと、様々な法律事務所が、関係省庁が公開する資料等を活用して、潜在的顧客に対して「第一人者」であることをアピールするための出版物が相次ぎます。

 そんな中、「企業法務のプロである弁護士から求められる本」が2種類あります。ひとつは、自己の法律解釈が間違っていないことを確認するために求める研究者の見解が示された本であり、もうひとつは、最先端の実務を担っている同業たる弁護士の経験談が示された本です。そして、「コーポレートガバナンス(CG)」は、後者の類型が求められる法分野の典型例です。金融庁、経済産業省、東証等が公表する文書から、CGの理念をぼんやりと理解することができたとしても、課題に直面した時に「では、具体的にどうすればいいのか?」の回答は各自で考えなければならず、そこでは「では、実務的にはどうなのか?」という相場観を知っておかなければなりません。

 社外取締役又は社外監査役に初めて就任することになった者にとって、大きなヒントを与えてくれる本が、松山遥弁護士の執筆された『はじめて学ぶ社外取締役・社外監査役の役割』(商事法務、2017年)です(また、それに続き、松山弁護士が、所属する法律事務所の同僚と共同で執筆された『実効的子会社管理のすべて』(商事法務、2018年)も、持株会社の社外役員にとっては必読の基本書になっています)。

 本インタビュー(2018年9月13日開催)では、まずは、松山弁護士に、裁判官から弁護士に転身された経緯からお伺いした後に(今回(第1回))、松山弁護士が社外役員として、どのようなスタンスでその職務に向き合っておられるのかをお尋ねし(第2回)、最後に、弁護士が社外役員に就任することのCG上の意義について語っていただきます(第3回)。(2018年9月13日、日比谷パーク法律事務所会議室にて)

 

 松山先生のご著書についてお伺いさせていただく前に、松山先生ご自身が、学生時代に、どのような本を用いて司法試験の勉強をなされていたのかに興味があります。まず、司法試験の選択科目は何でしたか。
 労働法です。菅野和夫先生の『労働法』(弘文堂)が充実していたので、労働法はこの本だけで勉強しました。
 他の科目では、どのような基本書を用いていたのでしょうか。
 基本書をきっちり読むタイプではなかったので、精読したと言えるわけではないのでおこがましいのですが、民法では、四宮和夫先生の『民法総則』(弘文堂)、刑法では、大谷實先生の『刑法総論』『刑法各論』(成文堂)、刑事訴訟法は、松尾浩也先生の『刑事訴訟法』(弘文堂)を使いました。憲法は、芦部信喜先生の『憲法』(岩波書店)です。
 民事訴訟法はどうだったのでしょうか。
 私の受験時代は、訴訟法はいずれかを選択すれば足りたので、刑訴選択の私は、司法試験用の民訴の勉強はしませんでした。
 研究者志望ではなかったのでしょうか。
 研究者を考えるような勉強熱心な学生ではありませんでした(笑)。
 東京大学時代に受けた授業で印象に残っているものはありますか。
 そうですね、「大学の教員って、なんて自由に研究活動をなされているのだろう」と感じさせてくれたのは、民法の米倉明先生ですね。債権各論の授業をとったのですが、当時、米倉先生は贈与にご関心があったようで、何週間にもわたって贈与に関する講義を続けていらっしゃっていて、最後は、スケジュールが間に合わなくなって、不法行為は1回だけになっていました(笑)。
 現在の法科大学院だったら、そういう授業の進め方は許されなくなっているでしょうね。
 はい。でも、ご自身の学問的関心をストレートに開示してくださる授業だったからこそ、本当に民法学に興味のある生徒を惹きつけていたのだと思います。
 他に印象に残っていた先生はいらっしゃいますか。
 先ほど申し上げた、菅野先生の労働法は面白かったですし、西田典之先生の刑法も面白かったですね。
 得意科目は何だったのでしょうか。
 理論的に詰めていく思考法よりは、利益衡量して物事を決める判断プロセスのほうが性に合っていたようで、民事系の科目の方が好きでした。
 当時から裁判官的思考が備わっていたのですね。学生時代から、裁判官志望が強かったのでしょうか。
 いえ、学生時代は、裁判官になることはまったく考えていませんでした。
 司法修習に行ってから、ですか。
 はい、司法修習中も、前期は進路を考えずにのんびりと過ごしていました(笑)。
 実務修習はどちらだったのでしょうか。
 東京修習です。まず、弁護修習で、次が民事裁判修習、という順序でした。
 弁護修習には刺激を受けなかったのでしょうか。
 弁護士修習も面白かったです。指導担当の先生が弁護士会の選挙でお忙しかったのですが、イソ弁の若い先生とご一緒していろいろとざっくばらんにお話が聞けましたし、他の事務所の先生に里子に出されたりしていまして、それ自体は、いろいろな事務所を見る機会を得られてよかったです。
 なるほど、それだけに、次の民事裁判修習で、腰を落ち着けて学べたのですね。指導担当裁判官は魅力的な方だったのですか。
 はい、篠原勝美裁判官(当時)に指導していただきました。篠原先生は、その後に初代の知財高裁所長を務められた方ですが、最高裁調査官も経験していて、真面目で理論的な方でした。
 裁判官という仕事のどのようなところに魅力を感じられたのでしょうか。
 事件を解決していくときの思考プロセス、ですかね。証人尋問も含めて、原告側と被告側の双方の言い分を聞いて、そのどちらが正しいか、どちらの結論にするべきか、という判断を、何のしがらみもなく追及していくプロセスが、私の思考回路に合っていたのだと思います。また、当時は修習生という立場でも自由闊達に裁判官の議論に参加させてもらえたのが楽しかったです。
 今はどうかわかりませんが、東京地裁では、修習生を「大人扱い」してくれていましたよね。
 そうかもしれません。法廷から裁判官室まで戻るエレベータの中で、裁判官から「どうだった? 証人尋問はどこをおかしいと感じた?」と意見を求めてもらえるのがうれしかったです。
 それでは、修習生時代には、具体的な法律事務所への就職を考えることなく、裁判官になられたのですね。
 はい、そうです。
 裁判官として扱った事件では、どのような事件が印象に残っていますか。
 私は、合計5年3ヵ月の裁判官生活の中で、民事を3年、刑事を2年扱いました。民事事件でもいろいろ印象深い事件がたくさんありますが、最も印象に残っているのは、刑事事件、殺人の否認事件です。共犯関係で、どちらが致命傷を与えたかについての関係者の証言が食い違うため、事実認定が本当に難しくて、「判決が書けないかもしれない」と不安を感じたのは、その事件だけでした。
 民事では、印象に残っている事件はありますか。
 弁護士になった後、企業の総務関係者から、私が裁判官時代に関与した判決について声をかけていただいたのは、退職慰労金贈呈の株主総会決議を取り消した事件(南都銀行事件。奈良地裁平成12年3月29日)ですね。当時は、株主総会決議取消しの訴えで、実際に総会決議を取り消した先例が少なかったところに、ほぼ同時期に、神戸地裁の尼崎支部と奈良地裁で判決が出たことで、その年の株主総会対応で企業の総務担当者は大騒ぎになったそうです。
 松山先生は、その年(2000年)の7月に弁護士登録をなされているのですよね。
 はい、その総会シーズンが終わった直後に、弁護士として日比谷パーク法律事務所に参画しましたが、当事務所は総会指導が1つの看板だったので、あらゆる顧問先の担当者から「あの南都銀行の裁判官ですか」と言われました。
 充実した裁判官としてのキャリアを送られていたように思えるのですが、何がきっかけで、弁護士に転身されたのでしょうか。裁判官の仕事に何か不満があったのでしょうか。
 裁判官の仕事はとても面白くてやりがいもありましたし、当時ご一緒した方にも皆さんよくしていただいて、何一つ不満はなかったです。ただ、やめた理由としては、一言で言ってしまうと、「転勤」ですね。
 やはり、転勤が原因ですか。
 誤解しないでいただきたいのは、私は、別に、東京に居たかったとか、地方が嫌だった、というわけではないのです。
 奈良地裁での生活は楽しかったのですか。
 はい、奈良地裁の3年間は、とても楽しかったです。いまだに奈良地裁時代の友人・知人とは仲良くさせていただいています。
 大好きになった地域を離れるのが辛かったのですね。
 すごく楽しかった分だけ寂しくなりました。どれだけ楽しくても、次の転勤シーズンが来たら、また別の場所に行かなければならない。そんな生活を一生続けるのか? 3年置きに繰り返すのか? と思ったら、それは続けられないと思いました。もうちょっと、一箇所に留まって仕事をしたい、と願いました。
 東京地裁から奈良地裁への異動では感じなかったことなのですか。
 東京から地方へ行くときは、そこまでは思いませんでした。当時は新任裁判官は高裁所在地に多く配属されていて、東京地裁にも同期が24人いまして、みんながどこかに旅立って新天地に行って活躍する、という感じでした。東京生まれの東京育ちの私にとっては、初めての地方生活でワクワクもしていました。
 実際に、奈良地裁での生活が充実して楽しかっただけに、転勤の辛さを知ったのですね。
 はい。私自身が、それまであまり引っ越し・転勤をしたことがない人生を送っていたせいもあるとは思いますが、とにかく当時は、3年毎に、ぶちっ、ぶちっと区切られて行く人生になってしまうのがイヤだという気持ちが強かったです。
 随分と引き留められたのではないですか。
 当時の部長からは、「全国にそうやって自分の居場所ができて行くんだよ」と仰っていただきました。今から振り返れば、「その言葉も真実だったんだろうな」と思う部分もあります。裁判所という大きな器の中で、色々な場所に自分のホームタウンが出来て行く。でも、そのときは、楽しかった地域を離れなければならないことの寂しさが大き過ぎました。
 裁判官、という身分保障のある身分を捨てるのは、大きな決断だと思うのですが、迷いはなかったのでしょうか。
 今思うと、「よくあんな大きな決断ができたな」と自分でも思います。若さってすごい! って(笑)。
 日比谷パーク法律事務所や久保利英明先生とは、もともとのお知り合いだったのでしょうか。
 いえいえ、まったく知らない事務所でした。久保利弁護士は当時から著名でしたし、私は、第二東京弁護士会で実務修習を受けたので、講師としては存じ上げていましたが、個人的には何も接点はありませんでした。
 てっきり、縁故採用だと思って居ました。それでは、一応募者として、法律事務所への転職活動をなされたのですか。
 当時は、まだ、裁判官を5年で辞める人は少なかったので、弁護士登録をしたくても、どういう転職活動をすればいいのかまったくわかりませんでした。そんな時に、友人から、インターネット上に中途採用の募集ページがある、と教えてもらって、そこに募集情報が出ていた事務所に、応募メールをお送りしました。
 そのメールを送った先が、日比谷パーク法律事務所だったのですね。
 はい。当時の日比谷パークには、中村直人弁護士がいらっしゃったのですが、中村弁護士は、朝型で、すごく早起きなのです。私が、夜に応募メールを送ったら、その翌朝の早い時間に中村弁護士から返信が届いて、すぐに面接日時が決まって、と、トントン拍子に話が進みました。
 当時は、日比谷パークには、久保利先生、中村先生、それに菊地伸先生がいらっしゃったかと思いますが、アソシエイトはいたのでしょうか。
 いえ、私が、初めてのアソシエイトとして採用されました。
 裁判官から転身して、アソシエイト第1号で入所する、というのも、チャレンジングですね(笑)。松山先生ほどの能力とご経験があれば、もっと大規模な事務所からも誘われただろうと想像するのですが、大規模な事務所に魅力は感じなかったのでしょうか。
 当時、私は、裁判所という巨大組織から転職しようとしていました。いわば、親方日の丸という「安定」を捨てて、新しいことをやりたいと思っていたので、「規模が大きいほうが安定している」とか「女性弁護士にいろいろな制度を用意している」と言われたとしても、特に響かなかったと思います。むしろ、裁判所とは対極なところにある、野武士、一匹狼的な弁護士と一緒に仕事ができることに魅力を感じました。
 裁判官から弁護士に転身されて、仕事面でのご苦労はなかったのでしょうか。
 私は、当時、日比谷パーク法律事務所の第1号アソシエイトでした。司法修習を終えて6年目だったので、パートナーの先生方からは、「6年生なんだから、これぐらいはできるでしょ?」と言われるのですが、弁護士実務はまったくの初めてだったので、実務がわからなくて苦労しました。
 そこで頼りにしたのは、商事法務の旬刊誌、資料版、ハンドブックシリーズでした。実務のことを知るのにとても救けられました。
 リサーチ業務も、裁判官時代とは大きく変わったのでしょうね。
 根本的な考え方は変わらないと思います。裁判官時代のリサーチで印象に残っていることがあるのですが、担当していた事件の中で時効が争われたケースがありました。私が裁判官になったのは、阪神・淡路大震災の年で、建築瑕疵の事件がわりと多く、時効や除斥期間が問題となったのですね。そのときの部長から「時効の制度趣旨に遡って考えるべきだ」として、図書室から梅謙次郎博士の著書を借りてくることを指示されたことがありました。
 取り出したら、装丁が崩れてしまいそうな古い本ですね。
 あまりにも古い本で、当時は「こんなところまで調べて役に立つのか?」と疑問も感じたのですが、おかげで「法律は立法時の制度趣旨から考えることがすごく重要である」と学ばせてもらいました。
 その学びは、弁護士業務にも活かされているのでしょうか。
 はい、日比谷パークに入ってから遭遇するのは会社法の論点が中心になりますが、「実務が先に進んでしまうので、ルールは追い付かない」ということを常に感じさせられます。そんな時の判断指針として「もともとの制度趣旨はどうなっているか?」「何のために、どういう問題を解決するためにこの条文が出来たのか?」から考える癖を付けることができました。
 梅謙次郎博士の本を借りてくるように命じてくれた当時の部長には感謝しなければなりませんね。
 はい。法律は、実務で起きる、何らかの問題を解決しなければならないと考えたからこそ、ルール化されたものです。しかし、実務で起きることを全てカバーできているわけではありません。未知の問題に遭遇したとき、法律の条文が、どのような問題について、どう解決するのが妥当と考えて立法がなされたのかに遡って考えることが重要であり、その訓練をできたのはありがたかったと思います。
 弁護士になって、まずは、訴訟代理人業務が多かったのでしょうか。
 はい、最初は、代表訴訟も含めて、裁判手続が多かったです。
 破綻した都市銀行の経営陣の融資判断に関する責任追及訴訟もご担当されていましたね。
 はい、当時のパートナーであった中村直人弁護士が多数の訴訟事件を抱えていらっしゃったので、ご一緒させていただきました。特に、破綻した銀行の経営陣に対する責任追及訴訟では、案件ごとに5つの裁判が同時並行で進行していて、各案件について、証人尋問をして、最終準備書面を書いて、控訴理由書を起案して、という作業が次から次へと続きましたので、中村弁護士と手分けして進めないとパンクする状態でした。裁判が終わって帰りの空港で、どちらがどの事件の準備書面を起案するのか、ジャンケンやあみだくじで決めたこともありました(笑)。
 弁護士1年目にそれだけの重要事件の起案を担うのは、大変だったのではないでしょうか。
 立場は違えども、裁判官時代に訴訟手続には馴染みがありましたので、準備書面の起案や証人尋問はなんとか対応できました。
 むしろ、苦しかったのは、株主総会指導でした。まったく経験がなかったので。最初に株主総会の事務局に入らなければならなくなったとき、パートナーに「手っ取り早く理解するには何を勉強したらいいですか」と聞きに行ったら「う~ん、総会事務局は場数だからね~」と言われ、私には何の役にも立たないアドバイスでした(笑)。そこを埋めるために、資料版商事法務には本当にお世話になりました。
 裁判では、訴訟だけでなく、会社の支配権を左右する仮処分も盛んな時期がありましたよね。2004年、2005年と、立て続けに、会社の支配権を巡って新株予約権の発行差止めが争われた大事件が起こりました。日比谷パークでは、2003年には、中村先生と菊地先生はすでに卒業なされていましたよね。
 これらの買収防衛に関する法廷闘争は、私が当時のアソシエイトと共に中心的に担当したので、とても印象に残っています。
 弁護士転身後は、ものすごい密度とスピードで5年分の弁護士経験の穴を埋める修行をなされたのですね。
 色々な事件を経験させてもらえて、私はとても恵まれていたと思います。1年目から普通に弁護士をしていてもなかなか経験できる事件ではないと思います。
 今は、「ワークライフバランス」という言葉が流行りですが、厳しくても、最初に良い経験を積むことは、成長につながりますよね。
 最初の5年の経験は大事だと思います。裁判官の5年間もそうでしたが、弁護士になってからも、アソシエイトとして先輩パートナーの監督を受けながら仕事をした2年間と、自ら筆頭となって案件を取り仕切るようになった最初の3年間くらい、その時期の経験はとても重要だったと思います。
 忙しさで言えば、やはり、弁護士になってからのほうが忙しいですよね。
 瞬間風速的に言えば、確かに、弁護士になってからの繁忙期が一番忙しいと思います。裁判官の仕事は、任期の中で、自分でペース配分をして、どこまでの事件をどういうスピードで処理するのかの調整するところに力量が問われています。
 これに対して、弁護士は、自分で仕事のコントロールができないので、その点は不自由ですよね。
 通年では、裁判所のほうが忙しかったとも言えるのですか。
 1年を通じた忙しさという点では、裁判官の5年目が一番忙しかったですね。刑事を2年担当した後に、民事1年、というイレギュラーな任期だったので。
 任期1年、というのはキツイのですか。
 特に民事の裁判官は、着任した最初の3ヵ月と、離任する最後の3ヵ月がとても忙しいです。最初は、未知の事件の分厚い記録を初めて読んで事案を理解しなければなりません。最初にパンクしかけて、その後に落ち着いて回せるようになります。そして、最後の3ヵ月に、転勤前に自分が書くべき判決を全部書いていかなければなりません。それを1年でやるのは大変でした。
 事件数も多かったのでしょうか。
 奈良地裁には民事でも1部しかなかったので、合議事件の数はとても多かったです。2部目が設けられる寸前の事件数でした。
 兼務の仕事もあると聞きますが、それも忙しかったのでしょうか。
 簡裁の民事、保全、執行を兼務していました。刑事では令状担当のほか、準抗告の数も多かったですね。その他に、判事補の裁判官が書記官試験のための勉強会を開催することも多く、そういった講師もしていました。
 裁判所でできることはすべてやりきった、という感じですね。
 いえいえ、私は、単独事件は3ヵ月しか担当していませんので、本当の意味で裁判官の苦労というものを経験していないと思います。ただ、判事補として裁判所に勤務していた5年3ヵ月としてはかなり色々な経験をさせていただいた方だと思っており、振り返ってみても、貴重な財産だったと思います。

(続く)

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