◇SH2692◇コンプライアンス経営とCSR経営の組織論的考察(181)コンプライアンス経営のまとめ⑭ 岩倉秀雄(2019/07/26)

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コンプライアンス経営とCSR経営の組織論的考察(181)

―コンプライアンス経営のまとめ⑭―

経営倫理実践研究センターフェロー

岩 倉 秀 雄

 

 前回は、雪印乳業㈱の創業から基盤形成期についてまとめた。

 関東大震災後、乳製品の輸入関税撤廃で経営不振に陥った煉乳会社が原料乳買取拒否を行ったので、北海道酪農が窮地に陥り、宇都宮、黒澤、佐藤等は、大正14(1925)年、不退転の決意で、酪農民による牛乳処理組織「有限責任北海道製酪販売組合」を立ち上げた。(雪印乳業(株)の創業)

 その後、組織は拡大し、全道規模の保証責任北海道製酪販売組合連合会(以下、酪連)に組織変更した。

 酪連創業の理念は、「酪連精神」と呼ばれ、「牛乳の生産者である農民と酪連の役職員が一体となって、協同友愛、相互扶助の精神に基づき、北方農業、寒地農業を確立、北海道を日本のデンマークにしよう」とするものであった。

 酪連の事業は、順調に拡大したが、第2次世界大戦の統制下で、明治製菓、極東煉乳、森永煉乳と合併して有限会社北海道興農公社(後に株式会社に変更、以下、公社)となり、組合組織は北連と合併して、保証責任北海道信用購買販売利用組合連合会(現、ホクレン)になった。

 戦後は、北海道の酪農在り方について議論が相次ぎ、公社は昭和21(1946)年、定款を変更し、北海道酪農協同株式会社(以下「北酪社」)となった。

 北酪社が乳幼児の主食煉粉乳を中心に生産し前途に曙光の見えた矢先、昭和23(1948)年、過度経済力集中排除法の指定を受け、昭和25年雪印乳業(株)と北海道バター(株)(後のクロバー乳業(株))に分割された。

 その後、両社は独自の道を歩んで発展し、昭和33年11月1日、雪印乳業(株)とクロバー乳業(株)が再合併し、新生雪印乳業(株)(佐藤貢社長)となったが、合併前の昭和30年3月、八雲工場脱脂粉乳食中毒事件が発生した。

 今回は、危機管理のモデルと言われた八雲工場脱脂粉乳食中毒事件への対応とそれを導いた創業時の経営者の考え方についてまとめる。

 

【コンプライアンス経営のまとめ⑭:食中毒事件と牛肉偽装事件③】

1. 事件の概要

 昭和30年3月1日、東京都内の小学校9校で、八雲工場製造の脱脂粉乳の給食を原因とする食中毒事件が発生した(摂食者7,638人中、患者1,579人)。

 3月3日、東京都は給食で配られた脱脂粉乳から多数の溶血性黄色ブドウ球菌を検出したことを発表した。

 黄色ブドウ球菌の発生原因は、最新鋭の輸入粉乳製造機の特殊ベルトが切れて補充に時間を要し、さらに停電事故が重なったことで、原料乳あるいは半濃縮乳が粉化前に長時間放置され、菌が増殖したものと推定された。(2000年発生の食中毒事件と類似)

 

2. 事件への対応

 3月3日の東京都の発表を受け、当時、雪印乳業(株)社長だった佐藤貢は、即座に製品の販売停止と回収を指示し、5日には新聞各紙に謝罪広告を掲載、学校には見舞金を送り、関係校の保護者にはお見舞状、学校長・PTA会長・教育長、保健所・販売店・同業各社におわび状を送り、経営首脳部が関係各所を歴訪し謝罪を行った。

 3月18日、佐藤社長による「品質によって失った名誉は、品質を持って回復する以外に道はない」と声涙ともに下る訓示があり、その内容は「全社員に告ぐ」と題して全社員に配布された。

 この訓示は、毎年新入社員の入社式で配布され、安全な製品づくりの重要性が教育されたが、昭和60年代には配布されなくなった。

 なお、この事件を契機に、北海道衛生部の指導の下、品質管理体制が抜本的に見直され、①衛生管理部門の独立強化、②検査部門の独立強化、③工場検査体制の強化、④検査関連人員の強化、⑤検査項目・回数・設備等に関する製品検査マニュアルの徹底的な作り直しが行われた。

 

3. 佐藤貢と黒澤酉蔵

 筆者は、当時の雪印乳業(株)が食中毒事件に迅速・誠実に対応しその後の品質の雪印を築き得たのは、佐藤貢[1] (経営トップ)が自ら創業時の困難を乗り越えてきた創業経営者で、かつ、酪連精神が組織文化の根幹に機能していたからであり、2000年の危機対応の失敗は、組織文化が変質し酪連精神(創業の精神)が失われたことと無関係ではないと考える。(後述)

 なお、2000年の食中毒事件で辞任した石川社長の後任の西紘平社長は、雪印乳業(株)の創設者の一人である黒澤酉蔵の「健土健民」(大地の健康を増進することが心と体の健康な国民を生む)の思想を創業の精神として掲げ、経営再建を図ったが、黒澤は、自身の考え方を、以下の通り語っている。

 「……正確に私の考え方をいいますと(中略)無神論でも共産主義でもありませんが、かといって資本主義とも全く違うのです。私の理想は、本物の農民救済ですから、他人に頼らず、資本家のふところをあてにせず、高利貸しや銀行をあてにせず、農民自身の自覚と限られた政治力、財力でこれをやろうとすれば、協同組合主義を採る以外に道はありますまい。それもうっかりすれば、無力、悪平等、非能率、衆愚ということに堕落してしまいます。…略…国民の一番求めているものをもっとも効果的にしかも、まやかしでない方法で提供するには協同社会主義意外にあるまいと考えました。」

 近年、社会的課題の解決を目的とする社会的企業や企業と社会の利益を同時に実現するCSV経営に注目が集まっているが、筆者は、大正時代から昭和にかけて、既にその思想を実践し雪印乳業(株)の基礎を築いたのが黒澤酉蔵であるととらえている。

つづく



[1] 佐藤貢は、酪連創業者の一人である佐藤善七の長男(明治31生)。幼少より父の牧場を手伝いながら、大正9(1919)年北海道大学農学部農業実科を卒業後、米国オハイオ州立大学に留学、乳製品製造学を学び、大正10年6月に卒業、バチラー・オブサイエンス及びマスター・オブサイエンス(大正11年)の学位を授与された。

帰国後、設立されたばかりの有限責任北海道製酪販売組合に技師として就職し、ゼロから乳製品類の製造・販売を行った。佐藤は、昭和24年公職追放者辞職勧告により辞任した黒澤酉蔵の後任として同社取締役会長に就任、25年過度経済力集中排除法により、同社が北海道バター(株)と雪印乳業(株)に分割された時に、雪印乳業(株)初代社長(八雲工場脱脂粉乳食中毒事件はこの時期に発生)になり、昭和33(1958)年、再合併した新生雪印乳業(株)の初代社長に就任、その後相談役等を歴任し、平成11(1999)年9月26日に101才で亡くなった。(平成の食中毒事件は、佐藤が亡くなった翌年6月に発生した。)

 

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