◇SH0755◇冒頭規定の意義―典型契約論― 第2回 はじめに―課題の設定―(2) 浅場達也(2016/08/05)

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冒頭規定の意義
―典型契約論―

はじめに ―課題の設定―(2)

みずほ証券 法務部

浅 場 達 也

 

2. 「どれかの典型契約に入れようと苦心する傾き」

 典型契約は法定の名を持つがゆえに「有名契約」とも呼ばれるのに対し、特に法定の名を持たない契約は「無名契約」と呼ばれる。第2の疑問点は、この「無名契約」に関するものである。

(1) 来栖三郎博士の見解

 「無名契約」の扱いと典型契約との関係において、ある種の「傾向」があることを示唆するような記述がある。来栖三郎博士の著名な記述を次に引用しておこう[1]

  1.  「しかし、混合契約と狭義の無名契約の区別の要否はともかく、無名契約(広義の無名契約)をどれかの典型契約に入れてしまうのは無理であり、無用であり、契約事実をゆがめて取り扱うことになるおそれがあるので有害でさえある。そのことはりくつとしては誰も否定しないが、それにもかかわらず具体的に契約を取り扱う場合には、ややもすると、その契約をどれかの典型契約に入れようと苦心する傾きがないではなかった。」(下線は引用者による)

 無名契約を、典型契約のどれかに入れようと苦心する傾向についての来栖博士の指摘である。「具体的に契約を取り扱う場合」に関する記述であり、人々の契約に関する行動[2]において観察されるある種の「傾向」について来栖博士は語っているといえるだろう。ここで来栖博士はそうした「傾向」に対して、「無理」「無用」「有害」という否定的な評価をしており、来栖博士の典型契約に対する消極的な評価がよく現れている記述と考えられる。

(2) 星野英一教授の見解

 体系書・概説書の記述ではないが、来栖『契約法』の発行より若干後の座談会[3]において、星野英一教授が行った発言の内容に、興味深いものがみられる。

  1.  「ところが、従来、といってもいつごろまでなのか、あるいは現在でもかなりそうなのかも知れませんが、従来の法律学は、法律に規定されている典型契約を中心に教えてきたのは当然としても、社会に行なわれている契約を何とかしてそのどれかの類型にあたるとし、ある典型契約にあたるとした後はそれに関する規定を原則としてすべてそのまま適用する、という思考方法をとってきたわけです。」(下線は引用者による)

 ここで「社会に行なわれている契約」とは、有名契約・無名契約を含めた契約一般を指していると考えられるから、無名契約を典型契約に無理にあてはめようとするという上の来栖博士と同趣旨の見解といえるだろう。

(3) 末川博博士の見解

 星野教授は、上の思考方法がとられてきた時期として、「従来」と表現しているが、では、「従来」とはいつごろからだろうか。かなり古い記述として、次の末川博博士の見解をみてみよう。これは、昭和8(1933)年に公表された雑誌論文[4]の中にある記述であることに留意する必要があるだろう。今から80年以上前のことである。

  1.  「斯くの如く、契約法の領域では、具体的に當事者が締結する契約の内容について典型契約の内容通りであるべきことの要求が爲されてはをらず、且つまた斯かる要求が爲され得る餘地もないに拘らず、今日までの實際法律上の取扱を觀れば、或る具体的の契約がある場合に、人は強ゐてその契約を何らかの典型契約の型にはめ込んでその効果を定めようとする傾向が強い。」(下線は引用者による)

 各時代を代表する契約法研究者が、興味深いことに、同趣旨のことを語っている。長期に亘って、民法学者が「強いて典型契約にはめ込む傾向」に対して警鐘を鳴らしてきたにもかかわらず、その「傾向」は生き続けてきたといえるかもしれない。この「傾向」はどこから生じるのか。こうした「傾向」を否定的に捉える見解は、妥当なものなのか。これが冒頭規定をめぐる疑問点の第2点である。



[1] 来栖三郎『契約法』(有斐閣、1974)741頁を参照。

[2] 「人々の契約に関する行動」を本稿では「契約行動」と呼んでいる。「Ⅳ 小括」の1. (2)の「契約行動と契約規範」において若干の検討を行う。

[3] 星野英一ほか「研究会・代理店・特約店取引の研究」(1)NBL138号(1977)10頁上段の星野発言を参照。

[4] 末川博「預金に関する法律問題の再吟味」銀行研究25巻5号(1933)73頁を参照。なお、末川博士のこの論稿は、判例評釈を加えて、『債権 末川博法律論文集Ⅲ』(岩波書店、1970)440頁以下に収録されている。

 

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