◇SH0486◇法のかたち-所有と不法行為 第四話-3「物権と債権の「峻別」は体系たりうるか」 平井 進(2015/11/24)

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法のかたち-所有と不法行為

第四話 物権と債権の「峻別」は体系たりうるか

法学博士 (東北大学)

平 井    進

4  ある作用をなすことによってある状態をもたらす

 所有権においては、前述の物の利用状態の維持・回復という結果状態をもたらすために(その原因となる)法作用をなすのであるが、パンデクテン法学は、その結果状態を「実体的な権利」の内容とし、そこから法作用(請求権)を導出すると構成し、そのことが論理的に問題となる。

 しかし、あえて「実体的な権利」という概念をとる必要はあるのであろうか。[1]これは、シンプルに、「ある作用をなすことによってある状態をもたらす」、それによる状態の維持・回復が規範に合うとすればよいのである。(この構造は、不法行為においても所有においても異らない。)

 ここにおいて、第三話で見たように、そのもたらされる状態が社会的に妥当であるのか、そのための作用がいかなるものであれば社会的に妥当であるのかについて、(演繹的ではなく)判断するのである。

 従来の所有権概念の本質的な問題は、それが法作用として義務者の責任と義務の内容を規定しないために、恣意的な観念性(絶対性等)によって所有権概念が社会的に妥当でなくなる(暴走する)ときに、それを規律(制約)するのに公共の福祉等の外在的な概念しかないということである。しかし、この外在的な規律概念は、全体主義的な体制において、容易に国民のあるべき自由を抑圧するものとなることは、歴史が示している。(この問題については、後で検討する。)

 それ故、法学の社会的な使命として、私法の中核的な位置にある所有権の法作用の内容は、規範によって適切に規定しておかなければならないのである。



[1] 一般的に、不要な概念をなくすことは「オッカムの刃」といわれているが、パンデクテン法学がなぜ上記の「実体的な権利」という公理演繹的な概念を求めたのかということは、中世のスコラ学的な思考の延長として見ることができよう。

 

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