法のかたち-所有と不法行為
第十五話 自由-「私のもの」を守ること
法学博士 (東北大学)
平 井 進
6 suumと基本的自由
以上で見たように、人間主体が本来もつ譲渡不可能な「実体」に関するsuumの概念は、人として守られるべき「絶対」的なものとして、他者に対してそれが私人であっても政府であっても同様に意義をもち、いずれにしても人の基本的な自由・権利の概念となっていく。
一方、人にとって譲渡可能な外部対象に関するsuum概念は、「相対」的に守られる財産(今日の通常の意味でのproperty)として私権の領域にある。この場合、「実体」であるのは外部対象自体ではなく、人とその対象との間の固有な関係であり、そのような「関係概念」において、前述の信仰と財産を迫害されていた人達は、それを自らの「実体」として守ろうとしたのである。
このように、suum概念は、今日、その「実体」の扱いに関して次のような位相をもつ。
人間主体から離して譲渡することが不可能な「実体」(内的な私のもの)
政府に対して 公法の基本法(基本的人権・自由)
私人に対して 私法の基本法(不法行為法)
譲渡可能な対象との関係としての「実体」(外的な私のもの) 財産権法
人間主体が本来もつ「実体」(身体・自由・名誉等)の概念は、私法においては不法行為法によって担われてきており、私法における基本法である。[1]従来、不法行為法において、原状回復や差止請求の要請に対してどのように理論化するかが重要な課題となっているが、本論はそれに対する一つの回答である。
一方、今まで述べてきたものとは異る「実体」概念のとらえ方がある。
ここで、人間が自らが主体的な存在であると思惟するその主体を「実体」として観念するとすると、その人間の外にあるものに対しては、その「意思」による関係ということになる。
「意思」する者を「実体」と思考する一つの系として、前述のサヴィニーは、関係する対象が意思(Willkühr)をもたない自然であるのか、意思をもつ人間の行為であるのかによって、それらを支配する法関係として物権と債権を定義する。[2]これにより、パンデクテン法体系では、前述の「物権と債権の峻別」、前者の「絶対性」と後者の「相対性」というドクトリンが派生するが、そのような意思支配による「自由の拡張」においては、上記の「内的な私のもの」が私法の基本として占める位置はない。[3]
[1] 従来、私法において基本法・基本権との関連が議論されているのは、不法行為法の分野である。例えば、山本敬三「基本権の保護と不法行為法の役割」民法研究, 5号(2008)を参照。
[2] Vgl. Friedrich Carl von Savigny, System des heutigen Römischen Rechts, Bd.1 (1840)§56, S. 367.
[3] 第四話で述べたように、サヴィニーが、人の生得的なことがらは実定法による承認を要しない「原権」であるとしてその法体系の対象に含めていないのは、この「実体」=「意思」の思考によると思われる。