1 事案の概要
本件は、山梨県所在の信用協同組合であるAの職員であったXらが、AとYとの合併(Yも、山梨県所在の信用協同組合である。以下、両組合の合併を「本件合併」という。)によりXらに係る労働契約上の地位を承継したYに対し、退職金の支払を求めた事案である。Xらの主張する退職金額は、Aの本件合併当時の職員退職給与規程(以下「旧規程」という。)における退職金の支給基準に基づくものである。これに対し、Yは、Xらに係る退職金の支給基準については、個別の合意又は労働協約の締結により、本件合併に伴い定められた退職給与規程(以下「新規程」という。)における退職金の支給基準に変更されたなどと主張して争っている。
2 本件の事実関係
(1) Aは、平成14年6月、経営破綻を回避するために、Yとの間で本件合併を目的とする合併契約を締結した。同契約において、①本件合併によりAは解散すること、②本件合併時にAに在職する職員に係る労働契約上の地位はYに承継されることなどが合意された。
(2) Aの職員に係る退職金については、本件合併後にYを退職する際に、合併の前後の勤続年数を通算して支給することとされたが、その支給基準については、平成14年12月19日の合併協議会において、旧規程の支給基準の一部を変更した新規程の支給基準とすることが承認された。
この変更により、①退職金額の計算の基礎となる給与額(基礎給与額)につき、旧規程では退職時の本俸の月額とされていたのに対し、新規程では退職時の本俸の月額を2分の1に減じた額とされ、また、②基礎給与額に乗じられる支給倍数の上限も定められた(以下、これらの退職金の支給基準の変更を「本件基準変更」という。)。
一方、旧規程で採用されていた「内枠方式」、すなわち厚生年金制度に基づく加算年金又は加算一時金に係る年金現価相当額又は一時金額(以下「厚生年金給付額」という。)を退職金総額から控除するという支給の方式については、旧規程でも維持することとされた。また、Aが加入していた企業年金保険が本件合併時に解約されることにより職員に還付される一時金の金額(以下「企業年金還付額」という。)についても、退職金総額から控除するものとされた。
このように、本件基準変更後の新規程の支給基準の内容は、退職金総額を従前の2分の1以下とする一方で、内枠方式については従前のとおりとして退職金総額から厚生年金給付額を控除し、更に企業年金還付額も控除するというものであり、これらの結果として、新規程により支給される退職金額は、旧規程により支給される退職金額と比べて著しく低いものとなった。これに対し、Yの従前からの職員に係る支給基準では、内枠方式は採用されていなかった(また、企業年金については、そもそもYにおいて企業年金保険に加入していなかった。)。
(3) 上記の合併協議会における承認に先立つ平成14年12月13日、Aにおいて職員説明会が開催され、Aの常務理事が、先に作成された同意書案を各職員に配付した上、本件基準変更後の退職金額の計算方法について説明した。この同意書案は、合併協議会の依頼を受けて、Aの職員に係る本件合併後の労働条件について検討した社会保険労務士が作成したものであるが、そこには、Aの職員に支給される具体的な退職金額について、Yの従前からの職員に係る退職金の支給基準に合わせてこれと同一水準とすることを保障する旨が記載されていた(上記(2)のとおり、本件基準変更の結果、Aの職員に支給される退職金額は、内枠方式が採用されていなかったYの従前からの職員との間で著しい不均衡が生ずるものであったが、職員説明会で配付された同意書案には、そのような説明が記載されていないばかりか、これに反するような内容が記載されていたものであった。)。
また、上記常務理事は、上記の職員説明会の後、XらのうちAの当時の管理職員であった者8名(以下「管理職Xら」という。)に対し、自ら作成した退職金一覧表(以下「本件退職金一覧表」という。)を個別に示した。本件退職金一覧表は、本件合併時に準備されるべき退職金の引当金額の算出を目的として作成されたものであり、ここに記載された引当金額は、本件基準変更後の退職金額の計算方法に基づき、平成14年12月末日現在の退職金額を、普通退職であることを前提として算出したものであった。
(4) その数日後の平成14年12月20日、Aの常務理事や監事らは、管理職Xらを含む20名の管理職員に対し、同日付けの同意書(以下「本件同意書」という。)を示し、これに同意しないと本件合併を実現することができないなどと告げて本件同意書への署名押印を求め、上記の管理職員全員がこれに応じて署名押印をした。本件同意書には、前記(2)の合併協議会において承認された本件基準変更の内容及び新規程の支給基準の概要が記載されるとともに、本件合併後の労働条件がそのとおりとなることに同意する旨の文言が記載されていた。
(5) 本件合併は、平成15年1月14日をもってその効力を生じ、同日から新規程が実施された。
その後、Yは、平成16年2月16日、更に山梨県内の三つの信用協同組合と合併し(以下、この合併を「平成16年合併」という。)、この合併後の新退職金制度を定める職員退職金規程(以下「平成21年規程」という。)は、平成21年4月1日から実施された。Xらのうち5名は平成21年規程の実施前に退職し、その余の7名はその実施後に退職した。平成16年合併前の在職期間に係る退職金については、Xらのいずれについても、支給される退職金額は0円となった。
3 本件の争点
本件では、①本件基準変更に対する管理職Xらの同意の有無が争われたほか、②Xらのうち、本件同意書に署名押印をしていない4名(いずれも、Aの職員組合の組合員である。)については、上記の署名押印がされたのと同じ日に本件基準変更を内容とする労働協約書が作成されており、労働協約の締結による本件基準変更の効力発生の有無も争点とされた。さらに、③平成16年合併時にも、同合併後の新労働条件(退職金額の計算において自己都合退職の係数を用いるものとするなど)に関する書面にXら全員が署名をしたことをもって、退職金の支給基準の変更(以下「平成16年基準変更」という。)に対するXらの同意があったか否かも争われた。
4 原判決
原審は、①管理職Xらは本件退職金一覧表の提示を受けて、本件合併後にYに残った場合の当面の退職金額とその計算方法を具体的に知ったものであり、本件同意書の内容を理解した上でこれに署名押印をしたのであるから、本件同意書への署名押印により本件基準変更に同意したものということができるとした。また、②労働協約の締結による本件基準変更の効力発生、③平成16年基準変更に対するXらの同意についても肯定した。
5 本判決
原判決に対し、Xらが上告受理の申立てをしたところ、最高裁第二小法廷は、その上告を受理し(上告受理決定において、上記①~③以外の点に関する論旨は排除された。)、上記①~③のいずれについても原審の判断は是認することができないとして、原判決を破棄し、本件を東京高裁に差し戻した。
6 説明
以下においては、判示事項に関する上記①の点(本件基準変更に対する管理職Xらの同意の有無)のみについて説明する。
(1) 労働契約においても、民法の一般原則に従い、その締結及び契約内容の変更は契約当事者である労働者と使用者との合意によってされるという合意原則が妥当する。
ただし、就業規則に定められている労働条件については、これを労働者の不利益に変更する内容の合意をしても、就業規則の最低基準効(平成19年法律第128号による改正前の労働基準法93条、同改正後の労働契約法12条)により、就業規則で定める基準に達しない労働条件を定めるものとして、その部分について無効とされる。そのため、就業規則に定められている労働条件を変更したい使用者としては、その変更に対する労働者の同意を得るに際して、就業規則の変更も併せて行う必要がある。そこで、本件基準変更についても、管理職Xらの本件同意書への署名押印を得るのと併せて、旧規程の一部を変更する新規程が作成されている。
労働条件の変更に対する労働者の同意が得られない場合には、合意による労働条件の変更の効力は生じないので、使用者が一方的に定めることのできる就業規則の変更による労働条件の変更の効力発生の有無(すなわち、労働契約法10条に定められている就業規則の変更の要件を満たすか否か)が次に問題となる。本判決は、管理職Xらの同意の有無に関する原審の判断に審理不尽があるとして本件を原審に差し戻しており、差戻し後の控訴審で、もし管理職Xらの同意がないとされることとなれば、次の問題として、就業規則の変更の効力につき審理されることとなろう。
なお、本判決が、論旨についての判断を示した冒頭部分において、「労働契約の内容である労働条件は、労働者と使用者との個別の合意によって変更することができるものであり、このことは、就業規則に定められている労働条件を労働者の不利益に変更する場合であっても、その合意に際して就業規則の変更が必要とされることを除き、異なるものではないと解される(労働契約法8条、9条本文参照)。」と判示しているのは、労働条件の変更に関しても合意原則が適用されることを示すとともに、学説の一部における見解(労働者と使用者との合意に加え、又は合意の成立要件若しくは効力発生要件として、就業規則の変更の合理性を要するものとする見解)を採用しないことを前提としたものであると解される。
(2) 労働者の同意の有無の判断方法について
賃金や退職金について労働者に不利益をもたらす内容の意思表示については、最二小判昭和48・1・19民集27巻1号27頁(シンガー・ソーイング・メシーン事件)において、労働者が退職金債権を放棄する意思表示につき、当該意思表示が労働者の自由な意思に基づいてされたものであると認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在すること(以下「自由な意思と認める合理的理由の存在」という。)を要するものとし、最二小判平成2・11・26民集44巻8号1085頁(日新製鋼事件)においても、賃金債権を合意により相殺する場合の労働者の意思表示について同様の判断をしている。
労働者は、労働契約の性質上当然に、使用者に使用されてその指揮命令に服すべき立場に置かれている上、自らの意思決定の基礎となる情報を収集する能力にも限界がある。そのため、賃金や退職金といった重要な労働条件を自らの不利益に変更する場合であっても、使用者から求められれば、その変更に同意する旨の書面に署名押印をするなどの行為をせざるを得なくなる状況に置かれることも少なくない。本判決は、このような労働契約関係に特有なものである労働者の立場等に鑑みて、同意書への署名押印をするなど当該変更を受け入れる旨の労働者の行為があるとしても、これをもって直ちに労働者の同意があったものとみることは相当でなく、当該変更に対する労働者の同意の有無についての判断は慎重にされるべきであるとして、「就業規則に定められた賃金や退職金に関する労働条件の変更に対する労働者の同意の有無については、当該変更を受け入れる旨の労働者の行為の有無だけでなく、……当該行為が労働者の自由な意思に基づいてされたものと認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するか否かという観点からも、判断されるべきものと解するのが相当である」としたものと解される(なお、本判決が「賃金や退職金に関する」としているのは、本件が退職金の事案であり、これまで下級審裁判例において問題とされてきた事案も賃金や退職金に関するものがほとんどであったことを踏まえ、これらの場面について判断を示したものと解される。労働者の同意の有無の問題は、賃金や退職金に関する労働条件の不利益変更以外の場面についても生じ得るものであるが、本判決は、このような他の場面にも本判決のような考え方が及ぶことを直ちに否定する趣旨ではなく、このような他の場面についての判断の在り方は今後の議論に委ねる趣旨であるものと考えられる。)。
また、本判決は、上記の観点から労働者の同意の有無につき判断する際に、具体的にどのような要素を考慮すべきかについて、「当該変更により労働者にもたらされる不利益の内容及び程度、労働者により当該行為(執筆者注;当該変更を受け入れる旨の労働者の行為のこと。本件では、本件同意書への署名押印がこれに当たる。)がされるに至った経緯及びその態様、当該行為に先立つ労働者への情報提供又は説明の内容等」という考慮要素を挙げている。もとより例示であるが、就業規則に定められた賃金や退職金に関する労働条件の変更に対する労働者の同意の有無が問題とされる場面で考慮される一般的な要素を示したものとして、同種事案における判断の参考となるものと考えられる(なお、これらの各考慮要素に基づく判断は、あくまでも総合判断であると解される。したがって、どの要素についても必ず考慮されなければならないものではなく、当該事案における事実関係に応じて、考慮すべき要素やその考慮の程度等が異なるものといえよう。)。
(3) 本件への当てはめについて
本判決は、まず、管理職Xらが本件同意書への署名押印をするに至った経緯・態様として、本件基準変更が、Aの経営破綻を回避するために行われた本件合併に際し、その職員に係る退職金の支給基準につき旧規程の支給基準の一部を変更するものであり、管理職Xらは、本件基準変更への同意が本件合併の実現のために必要である旨の説明を受けて、本件基準変更に同意する旨の記載のある本件同意書に署名押印をしたものであることを挙げている。
このような経営破綻の回避のための合併の場面では、その合併の実現に労働条件の変更への同意が必要とされている旨の説明を受ければ、労働者において、労働条件の変更の必要性を理解し、これに応じようとすることも少なくないであろう。ところが、本件の場合は、新規程の内容が、退職金総額を従前の2分の1以下とする一方で、内枠方式については従前のとおりとして退職金総額から厚生年金給付額を控除するなどというものであって、自己都合退職の場合には支給される退職金額が0円となる可能性が高いという、不利益の程度が著しいものであった。しかも、本件同意書への署名押印の1週間前に開催された職員説明会で各職員に配付された同意書案には、Yの従前からの職員に係る支給基準と同一水準の退職金額を保障する旨が記載されていたにもかかわらず、実際には、内枠方式が採用されていなかったYの従前からの職員との間で、著しい不均衡が生ずるものとなっていたのである。
本判決は、このような特殊ともいえる本件の事実関係の下で、管理職Xらに対し必要十分な情報が与えられていたというためには、自己都合退職の場合には支給される退職金額が0円となる可能性が高くなることや、Yの従前からの職員に係る支給基準との関係でも上記の同意書案の記載と異なり著しく不均衡となることなどについても情報提供や説明がされる必要があったとして、この点についての十分な認定、考慮をせずに管理職Xらの同意を認めた原審の判断には、審理不尽の結果、法令の適用を誤った違法があるとしたものと解される。
7 本判決の意義等
本判決は、労働者に不利益をもたらす意思表示の有無につき、労働者の自由な意思に基づいてされたものと認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するか否かという観点から判断すべきというシンガー・ソーイング・メシーン事件判決等で示されてきた考え方が、就業規則に定められた賃金や退職金に関する労働条件の変更という場面でも妥当するものであることを明らかにするとともに、このような場面における一般的な考慮要素を示した点で、労働契約関係法理として重要な意義を有するものと解される。また、その法理の本件への当てはめについても、上記の考慮要素が本件の事案における具体的な適用場面でどのように考慮されるかを示している点で、実務上重要であると考えられる。したがって、ここに紹介する次第である。