企業法務への道(5)
―拙稿の背景に触れつつ―
日本毛織株式会社
監査役 丹 羽 繁 夫
《幻の証券引受業務構想》
「昭和46年度は、公社債市場の長い歴史にとっても正に画期的な年であった」との書出しで始まる、『直面する我が国公社債市場問題-国際比較と若干の提言』と題する報告書は、1971年11月に『内外の経済金融環境の変化に伴う公社債市場のあり方』をテーマとして審議を開始した証券取引審議会特別委員会に対して、長銀より意見提言することを目的として銀行内で組織横断的に構成された7名の証券問題プロジェクトチームにより、作成された。
同プロジェクトチーム事務局は、証券部調査・企画担当に置かれ、私もその一員に加えられた。報告書は、翌72年4月に、長銀の内部資料としても刊行され、以下の7つのテーマで構成されていた。
- 公社債流通市場価格と発行条件の関係について;
- 公社債発行条件の弾力化;
- 社債の発行限度について;
- 我が国における起債調整について;
- 証券引受機能について;[1]
- 投資顧問業務について;
- ドイツの抵当証券について;
1971年当時の我が国の公社債市場は、①1965年以降の赤字国債発行を契機として金融機関の公社債保有残高が増大する中で、法人企業への金融仲介機能を確保するために保有されてきた公社債が徐々に流動化されたことにより、流通利回りが上昇し、低位に維持されてきた発行利回りを流通利回りに鞘寄せせざるを得ないという、発行条件の弾力化が進展するとともに[2]、②1970年の第1回世銀債、同71年の第1回アジア開銀債(いずれも円建て外債)が発行され、我が国資本市場の国際化が漸く緒についたばかりであった。長銀からの提言は、上記のテーマそれぞれについて、欧米市場の克明な実情調査を踏まえて、我が国金融市場及び証券市場の、欧米と対比した特質を指摘することに、主眼を置いたものであった。
このような状況下で、我が国資本市場を欧米の資本市場と伍することのできる市場に育成することが、証取審としての喫緊の課題であった。このために、長銀からの提言を受けた大蔵省証券局では、我が国資本市場の国際化のためには健全な証券引受機能の育成・強化が不可欠であるとの認識に至り、1971年度に入り、興銀及び長銀の2行に引受業務を認める構想について、秘かに検討が進められた。長銀証券部でも、新たなメンバーによるプロジェクトチームが組成され、長銀の法人取引先について、事業債引受の可能性についての実践的な調査が行われ、内部資料として纏められた(残念ながら、その後この資料を紛失してしまい、その内容を紹介することができない)。2行への引受業務認可構想は、その後、遺憾ながら、都市銀行の意向を受けた大蔵省銀行局の反対により、「幻の引受業務構想」に終わってしまった(この稿は、長銀昭和46年入行者40周年記念誌『あのころ そして今』(平成23年12月3日発行)に寄稿したものに加筆修正したものである)。
[1] 引受業務に関しては、欧州については、当時、興銀特別調査室による一連の優れた調査資料があった。米国については、Vincent P. Carosso (ニューヨーク大学教授、米国金融経営史)
”Investment Banking in America A History” (Harvard University Press, 1970)が、プロジェクトチームの中で、教科書のように参考にされた。
[2] 発行条件の弾力化については、チームメンバーであった鹿毛雄二氏(当時、長銀調査部調査役)の、『社債金利の弾力化』(昭和46年6月頃の長銀「調査月報」)という優れた論文があった。