連続法学エッセー『民法の内と外』(2c)
-三角(多角)取引とその展望(下)-
京都大学法学博士・民法学者
椿 寿 夫
〔Ⅳ〕 検討指標の幾つか(続き)
(オ) 債権および契約の相対性 本問で問題としている契約は、もちろん債権契約であるが、1804年のフ民1165条には非常にはっきりした象徴的な規定があった。「合意は契約当事者間でしか効力がない。合意は第三者を害さず、1121条(第三者のための契約)の場合を除き第三者を利することもない。」というのであるが、新法1199条1項も「契約は当事者間でしか債権債務を生じない。」と規定して伝統の発想を維持し、同条2項において第三者の権利を一定の場合に限定する。
わが国では、出発時において相対効性の規制はなかったが、それが原則であると解釈し、時と共に不動産賃借権を中心にそれが修正されたのは周知のところである。問題は、修正が本問すなわち三者関係ないし三角取引とどのように関わるかであり、前掲『深化』論考22は、塾メンバーのかなりの共通認識となってきた発想に立脚した適切な見解方向を示している。ただし、“契約の第三者効”がなぜ、かつ、どのような意味において妥当しないかの具体的論証がまだ欠けていて、深化版のさらなる大型補充を必要とする。私見も予定どおり書くことにする。
(カ) 契約=二当事者説 契約は1人対1人の対向だとは条文に書いてはいないが、ドイツの若手研究者によると、民法典(BGB)の成立過程でそのようになったらしい。とすれば、契約法の諸規定は組合を例外として三者・多者を想定してはいまい。この歴史的経緯は実務の需要と直接関係はないであろうが、2人“以上”と学説がわざわざ付加する契約の定義(前記ウ)にもかかわらず、ドイツ法の影響が強いわが民法典の契約概念は、契約が二当事者の間で締結されることを前提にしていたと理解するべきかもしれない。
私は古いわが国の文献を若干しらべたが、手掛かりを得られないので、当地で古い文献によりどういう流れがあったのかを調査する予定でいる。とりあえず現在の段階では、ドイツ法も、またそれを輸入(学説継受)した日本法も“契約は二当事者間で行われる”との見解に立つと仮定しておく次第である。――この立場の下では、三者契約は立法のけん欠であって、解釈・運用により充填できる。
少し遊びめくが、“双方契約”あるいは“二当事者間契約”という言葉に出会った際、「おや?」と感じられるかどうか。何となく納得し難いという感じを通り越して「同義反復ではないか」と直感される人には、そういう直接の規定はないけれども「契約は二当事者間で行われる」ことがかなり染み込んでいる。どこからそれは入ってきたか。契約の定義との関係はどう理解するのか。さらに、そこから先、三当事者・多当事者の地位をどう見るか。
(キ) 当事者の意思 契約・合意において当事者の“意思”を問題にしないで法律論を云々するなぞは、もちろんありえない。われわれのテーマにあっても、問題解決における最後の決め手は意思に帰着することが当然自明とされてきた。新しい論点が出てきたら、いろいろ言いつつも結局は「当事者の意思による」で片付けている場合が多い。或る意味、非常に便利かつ簡単であり、「意思主義」という言葉には、意思表示論・物権変動論に続き“意思の根源性”を示すという意味および内容で第3番目の座を与えてよさそうである。したがってまた、その“意思なるもの”を微細に分別する作業も貴重と評価される可能性も出てこないではない。
しかし、私見は本問においてのみならず、広く一般に、判断基準として“意思”をいとも簡単に(つまり慎重でなく)用いる仕方に対し賛成できない。例えばドイツの学者シュメッケルは、代理権の範囲が本人の意思だけで決められるとする通説に対し、「意思に伴う諸事情と取引慣行がますます強く考慮されるようになっている」と述べている(『代理の研究』2011日本評論社・第1部論考Ⅰ参照)。意思だけを援用していない点に注目したい。私見はいろいろな場面においてこの“二元的ないし多元的な根拠づけ”を考えているので、折を見て研究塾の共同作業にも“法的理由付けにおける意思の比重”問題を入れる予定だが、本問では“当該取引の仕組み”を当事者意思と並べて問題にしている。おそらく経済学の助けも必要になるだろうが、意思という要素は現在までに比し重要度もずっと軽くなるはずである。
〔Ⅴ〕 エピローグ
〔Ⅳ〕に一端だけでも収めようと予定していた項目は、以上のほか、三角・多角取引観念の①「機能と範囲」や②「要件・効果」があり、③複合契約説(前記『深化』論考3)との比較対比、④不法行為法への持ち込みあるいは不法行為発想の利用の是非(請求権競合の問題を想起されたい)、⑤私見のいわゆる古典的場面の総合的検討(伝統的な民法論の再検討である)、⑥物権変動ではなく契約法における第三者の法的地位(慶応大学の雑誌に序説的な好論考があるが、後日における展開の存否が不明)など、広範にわたる論題もせめて少しは顔を見せておきたかった。①などでは消費者契約論とも絡む可能性があろうし、⑥については帰国後執筆を予定している。――今回はこれをもって終わり、もしこのシリーズのどこかで機会と余裕があれば、どの部分かでも書いてみたい。
もう一点、前記『深化』は、雑誌→研究書と頑張って来た後、さらに深めるために企画したが、なかなか奥が深くて、とりわけ総論的テーマへの接近が思うようには進んでいない。ただ、これ以上に共同作業を発表まで含めて大々的に行う計画は目下のところ考えていないため、各自がそれぞれのテーマあるいは抽象化した次元で努力されることを待望するが、『深化』論考11を担当した実務法曹は、その作業に続き、勤務する流通経済大学の紀要に業務としての発言に加え学理的な検討をも公にしつつある。意思の意義や意思自治その他いろいろ研究者好みとも言うべき思考を重ねているので、有益な基礎に取り組む作業として参照されれば幸いである。
(2017年1月20日稿了)