◇SH1160◇企業法務への道(12)―拙稿の背景に触れつつ― 丹羽繁夫(2017/05/16)

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企業法務への道(12)

―拙稿の背景に触れつつ―

日本毛織株式会社

取締役 丹 羽 繁 夫

《レンダー・ライアビリティと海外不動産訴訟の嵐》

 1993年5月にニューヨークから帰任し、法務部に着任した私を待ち受けていたのは、第一にバブル経済崩壊後の企業倒産の嵐であり、第二にレンダー・ライアビリティという請求原因の名の下に海外で提起された幾多の海外不動産訴訟の嵐であった。前者については、説明を要するまでもなく、法務部が各種倒産手続の前面に立って処理を進めたものであった。

 後者について、私は、ニューヨークの大手法律事務所Sherman & Sterling法律事務所より入手した、米国におけるレンダー・ライアビリティ関連の判例を集積したメモランダムに基づき、1994年7月1日号の「NBL」誌巻頭言「マキシマムロー・ミニマムロー」欄に、レンダー・ライアビリティについて紹介した。この稿では、1980年代に米国で猛威を振るったレンダー・ライアビリティ訴訟に用いられたコモン・ロー上の2つの法理を紹介した。1つは、貸し手と借り手との間に、貸し手が借り手の信頼を受け、借り手の利益を念頭において行動、助言しなければならないという「信認関係」が存在する場合には、受認者である貸し手が借り手の信頼を損なうときには信認義務違反を認定するという法理である。もう1つは、「本人/代理人関係における本人としての責任」という法理である。借り手に対して過度のコントロールを行使した貸し手は、借り手の業務に関する一切の義務について「本人(Principal)としての責任」を負う恐れがあり、この場合には、借り手は貸し手の単なる代理人(Agent)又は分身(Alter Ego)に過ぎなくなるという法理である。米国の判例は、これらの法理の適用には、実際には極めて慎重なスタンスを取ってきた。

 我が国では、1990年代にバブル経済が崩壊すると、多重債務企業や海外不動産に投資した個人投資家らが自らの過剰債務の返済を免れる根拠として、レンダー・ライアビリティの法理を請求原因とした少数の裁判例があった。我が国の裁判所も、米国の裁判所同様、貸し手・借り手間に「特別の事情」を認定することには慎重であった。数少ない裁判例であるが、ある多重債務企業が、その主力銀行が優越的地位を利用して役員人事に介入し、出向者を通して経営を支配したことが独占禁止法19条の「不公正な取引方法」に該当すると主張した訴訟において、東京地裁は、「原告(貸手)が被告(借手)の経営に関与したのも、その方法、形態、当時の被告会社の経営状況に照らすと、その目的はあくまで被告の再建のためであり、その範囲は右目的を逸脱するものではな」いとして、借り手の主張を退けた裁判例がある(東京地判平成8・1・22)。

 私がレンダー・ライアビリティについての前掲稿を執筆した直後から、不幸にして、長銀は、多重債務者であったイ・アイ・イ・インターナショナル(EIE International)の海外不動産事業のパートナーらから、長銀が同社を支配してきたという請求原因の下に、彼らが投資した不動産物件が所在したハワイ、オーストラリア、米国西海岸、グアム等の裁判所で相次いで訴訟を提起された。私の手許には訴訟に関連した資料がなく、また守秘義務もあるので、これらの訴訟の詳細を語ることはできないが、長銀に在職した2000年1月末までに、幾つかの訴訟は和解で解決されたが、その他の訴訟は、私が退職した後の長銀法務部のスタッフ及び長銀の債権を継承した整理回収機構の手にその解決が委ねられた。

 これらの訴訟手続においては、私の方針として、前掲Sherman & Sterling法律事務所やロサンゼルスの大手法律事務所Paul Hastings法律事務所に全体の訴訟手続を統括する役割を委任し、訴訟が係属した国・地域の代理人は彼らの選択に委ねた。これらの訴訟は主として米国の訴訟手続及び考え方に準じて進められたので、最初の訴訟が提起された94年7月から長銀を退職した2000年1月末まで、DiscoveryやDeposition等の米国流の訴訟手続を学び、吸収し、体験を重ねる日々であった。

 この5年半にわたる経験の中で、米国西海岸でリゾートホテル・チェーンを展開しようとしていたあるディベロッパーとの訴訟の最終局面で、サンフランシスコで実施された1日の仲裁手続(One-day Mediation)の顛末は極めて印象深い。この訴訟を和解交渉で解決するために、長銀の経営陣から予め250万ドルまでの交渉権限を取り付けたうえで仲裁に臨んだ私の役割は、500万ドルを要求していた相手方が250万ドルではこの交渉の場では合意しないだろうと予想して、米国の弁護士と打ち合わせたうえで、仲裁人の手続の説明が終わり、原告、被告双方の15分程度の主張が終わったところで、席を立ち、交渉の場から去るという役割であった。我々の予想通り、私がサンフランシスコから東京に戻るまでの間に、相手方は250万ドルで和解することに同意したのである。

 このような修練の場が得られたこともあり、同年2月より勤務を開始したコナミでの海外知的財産権訴訟への対応では、もはや驚くこともたじろぐこともなく、肝を据えて対応することができたのである。

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