中学生に対する法教育の試み―不法行為法の場合(6・完)
学習院大学法学研究科博士後期課程
荒 川 英 央
学習院大学法務研究科教授
大 村 敦 志
(4)・(5)で、第2回の授業の概要の紹介、外形的な観察までを終えた。第1回と同様、ここから内容上の観察に入っていく。
第3節 内容上の観察――不法行為法を教えるポイント
(1)事実の側から考えはじめる
第2回セミナーと第1回セミナーは、法的推論をめぐって相互に密接な関連をもつものとして構想されていた。このことは、(4)のはじめで記録しておいた通り今回のセミナー開始冒頭の時点で予告として示されたし、セミナーの締めくくりにあたってもう一歩踏み込んだかたちで整理されたことを、(5)の最後で記録しておいた。
繰り返しになるが、第2回のセミナーでは、ルール(あるいは不法行為法によって保護されるべき利益)が明確な形で存在しているとはいえなかった事件が取り上げられることによって、事実の側から考えはじめて、法的推論を可能にするルールを立てる方向へと議論が進められた。念のため挟言しておくと、ここでルールと表現したのは(不法行為の成否にかかわる)法命題であり、セミナーのなかで具体的に検討されていった図書の除籍基準――セミナーでは、この除籍基準についての違反が「ルール違反」と表現されることが多かった――や最高裁判決で言及された図書館職員の守るべき規範などを指してはいない。
第2回のセミナーでの主催者と参加者との対話では、船橋市西図書館事件に関わってくる事実関係をどのように理解するか、そこで不法行為の成立が認められるのはどのような場合なのか、といった話題にかなりの時間が割かれた。この対話プロセスのなかで、今回取り上げられた争いを規律すべきルールを立ち上げる試みが行われたのだが、そこには参加者側からのアイディアの発信とそれに触発された参加者のあいだの協働が、――実際には裁判所の考え方の追認と思われるものが少ないとは言えず、また、主催者のリードによった部分が多分にあったにせよ――、十分に反映されていたように見受けられた。今回のセミナーのスタイルは、中学生たちが実験的・創造的に法的推論を――追体験的にであれ――経験し、その仕方、そしてその帰結(新しい権利義務の承認)についての理解を深める格好の機会につながったように思われる。
セミナー前半の最後に示された疑念、すなわち、「除籍基準に従わない廃棄が、どうして著作者の人格的利益の侵害につながるのか分からない」という疑問にはとまどいが込められていたように見受けられた。このとまどいは、適用されるべきルールが未確定の事実関係に直面する状況に放り込まれたことをよく示しており、ここからも今回の試みが上でふれたような機会になったことを確認できるように思われる。
改めて印象に残った点としては、予想されることとはいえ、憲法上の権利・自由のカタログが中学生の思考に対して支配的と言っていいような影響力をもっていたことを挙げておくべきように思われる。図書館の蔵書の廃棄がただちに表現の自由の侵害と捉えられたり、図書の購入段階での選択(買う・買わない)と除籍・廃棄段階での選択(捨てる・捨てない)とに同等な平等取扱いが求められたり、というように。
(2)事実から生じる法的利益・事実上の利益
以上のような対話から立てられたルールはおおよそ次のようなものだった。公立図書館の職員は、蔵書の取り扱い(今回はとりわけその除籍・廃棄)にあたって図書館の内部規範(ex. 除籍基準)に従う義務を負っているが、たとえ内部規範であっても、その規範が、図書館の蔵書を通じて著作者がその思想や意見を公衆に公平に伝達する利益を保護することを目的としている場合には、職員が内部規範に違反する行為を行えば、著作者との関係でその利益を侵害する不法行為責任を負う。そして、今回の事実にこのルールを適用すると、今回取り上げられた事件の図書館職員の行為はそのような規範に対する違反に当たり、かつ、それを意図的に行ったので(「つくる会」に関わる著作者とその著書への否定的評価と反感から)、その職員を使用する市には著作者に対する不法行為責任が発生する(使用者責任〈715条〉。なお、このルールは図書館が公立図書館であるからこそ立てられたものである点で、国家賠償法が関わる要素を取り除くことは非常に困難なのだが、ここではこれ以上この点には立ち入らない)。
上のようにルールを表現するのに、著作者の利益を「人格的利益」と位置付けることをこの段階では避けている。これは生徒たちがルールを立てるに当たって彼らが直接使った言葉をさしあたり尊重するという記録係の方針によるもので、主催者との対話の文脈をあわせて考えるなら、必ずしも生徒たちがそれを人格的利益と捉えていなかったこと意味するわけではない。ただ、記録しておいたところからうかがわれると思われるが、生徒が考慮していたのは、どちらかといえば、(人格的利益一般ではなく)著作者が思想・意見を伝達する利益のほうのようだったとは言えるだろう。
いずれにせよ、このようなルールが立てられたあと、これに続いた主催者の説明は微妙であった(上で立てられたルールとの関係では、以下の主催者の発話に含まれる「ルール」として念頭に置かれていたのはまずは除籍基準であった)。
- 主催者:ルールはなにかの目的とか、なにかの利益を保護するためにある、というふうに考えて、その目的や利益が、著者と関係がないんだったら、それは、そのルールに従っていないことから、著者の利益が侵害されたとは言えないだろう、と。U説だけどね、今のね。
このように主催者はいったん生徒たちの理解をまとめ、こう続けた。
- 主催者:で、しかし、そのルールというのが、著者の利益をはかる目的をもってるかどうか分かんないんだけども、著者の利益をはかるという――なんていうのかな――機能を果たしてる。現実の問題として、このようなルールがあることによって、その著者の著作物が一定の仕方で扱われる、と。そういうふうな期待というのをもってよくて、それを、ルールに従わないで処分がされるということになると、ルールに従って公平に取り扱われるという利益が損なわれてる、っていう、そういうことですかね?
- 生徒U:はい、そういう――……
- 主催者:どうですかね?
最後の主催者の問いかけに対しては、参加者からとくに応えはなかった。それを確認したうえで、主催者は「今のことを、判決との関係でみてみると」と前置きして、改めて最高裁判決で採られた考え方の再確認に進んだことは記録しておいた。
その手前の、ここで再現した主催者の一連の表現からは次のふたつの主催者の考えを取り出すことができるように思われる。①船橋市の除籍基準については目的と機能を区別することができ、その除籍基準と著作者の利益の関係がどのようなものかといえば、どちらかというと、除籍基準は著作者の利益をはかることを目的としているというよりは、除籍基準が著作者の利益をはかる事実上の機能をもっていると表現するほうが相応しいように考えられる。②図書館の除籍基準が事実上著作者の利益をはかる機能を果たしていることに基づいて、著作者はそのような利益を享受し続ける期待・信頼を抱くことがありえる。このときその期待・信頼が不法行為法上保護に値する利益になる場合もあると考えられる。この2点である。
②の点は、春の開成セミナー第二回(テーマ:UFJ対住友信託事件)で主催者が述べた点とほぼ重なるように思われる。この点は、開成セミナー同様、今回も「先行行為」をキーワードに説明が加えられたことも記録しておいた。微妙なのは①のほうである。①のほうは、船橋市西図書館事件の一審・二審で採られた考え方を想起させるように思われるところがないではない。どういうことかといえば、生徒たちの発想から現れるような、船橋市の除籍基準によって公立図書館の蔵書になった図書の著作者がもつとされた利益は、事実上の利益であって法的に保護されるべき利益とは言えない。そう評価される可能性があるものと紙一重なものなのではないか、と考えられることにもなりそうだということである。
この点をどう考えていけるのかも検討されてよかった問題であるように思われる。ただ、次のように主催者が対話を進めた部分に手がかりはあったのかもしれない。
(3)図書館職員の義務違反と著作者の人格的利益のつながり方
主催者は、(2)でふれた、最高裁判決の考え方の再確認のあとに続けて、生徒Oに次のように訊ねて対話を進めた。
- 主催者:O君、これでだいたい納得なのかな?
- 生徒O:なんとなく因果関係がつかめたと思います。
- 主催者:因果関係なのかどうかっていうところはあるんですけれども、――これ、図書館職員としての基本的な義務に反してる、っていうのが、やっぱりかなり大きな意味をもっているんだろうと思います。この義務違反を、不法行為法上、否定的に評価するためには、これによってなにか利益が損なわれているよね、と、こういう話が出てくる必要がある、と。で、それは公的な場としての図書館のあり方というのを大きく損なう、と。不公正な取り扱い――さきほどのU君の言葉で言うと――不平等な[公平性が欠かれた]取り扱いというのがされてる、と。で、それを損害としてとらえ、損害賠償を認めることを通じて、義務違反を非難する、と。
ここで因果関係についての不法行為法をめぐる議論に立ち入ることは避けたい。生徒がここで応えているのは、ルール違反――ここでは除籍基準に従わない廃棄――と著作者の(人格的)利益の侵害とのあいだになかなか見出せなかったつながりを、自身なりに(あいだに公平に図書を扱う公的な場をはさんで、ただし、主催者の言う「一直線で」、)見出せたということのように思われる。生徒Uから記録しておいたような説明を聴き、主催者による最高裁判決の考え方の(再)解説を聴いて同じように理解したことによって。
ここでいったん生徒たちが立てたルールから離れてみると、そのルールとは少し(かなり?)違うルールが浮かぶようにも思われる。主催者の説明からは、今回の事件では、高度化する科学技術を備え、人間関係が広範化・複雑化する社会に対応しようとした不法行為法の変化のなかで現れたとされる、過失についての理解(法令によって、または、社会生活上設定された義務違反)、もしくは、権利・利益侵害のあり様(いわゆる「間接侵害」)についての理解と関わっているような、あるいは、それらに構図としては似たところがないでもない問題状況が見え隠れしているようにも感じられる。具体的な直接の侵害行為の一歩手前の、抽象的危険を伴う活動に着目する考え方が採られているのではないか、ということである(もっとも今回取り上げられた事件では、主催者が繰り返し指摘したように、図書館職員は「つくる会」関係の著作者や著書に対する「否定的評価と反感」から除籍・廃棄を行ったのだから、過失が問題になることはない)。
そうだとすると、今回の事件で問題になった図書の廃棄が公立図書館の職員の職務上の義務違反と評価されるにあたっては、直接的に「結果」を回避する義務と対比される意味合いで言及される、間接的な義務違反を問題にする考え方に似た発想が採られていたということになるのかもしれない。ここから次のように考えるのもそれほど不自然ではないように思われる。最高裁の言う、図書館職員としての基本的な職務上の義務が課される目的は、著作者の思想や意見を伝達する利益をはかること自体というよりむしろ、思想や意見が交換される公的な場を損なわないことであって、公的な場で著作者が著作物を著した人として不公正に取扱われないことなのではないか。そして、今回の事件で具体化されたのは、著作者がその思想や意見を伝達する利益の侵害というよりむしろ、著作物を著した人として認められる人格を損なうような態様での利益侵害だったのではないか。
こう考えると、図書館職員の義務は必ずしも直接には著作者に向けられているわけではないという点では、著作者の人格的利益への侵害は、その義務違反と公的な場を介して「一直線で」つながるというより、むしろ公的な場にいわば“ぶら下がる”ようなかたちでつながっているということなのかもしれない。
主催者は、図書館は「本を買わなければ、別によかったんだよね」と述べていた。もっと言えば、非難されないようにするだけなら、図書館をつくらなければよかったということになりかねない。しかし、公立図書館が思想や意見が交換される利益をもたらす「公的な場」になっているなら、それは社会的に有益なものだろうし、もしかしたら壊れやすいものと言えるのかもしれない。ただ、その公的な場はさきにふれた発想のもともとの文脈――抽象的危険を伴う鉄道事業や化学工業が営まれている状況――とは大きく様相が違う。そうしたなかで、今回話題になったような図書館職員の義務違反が非難され(その結果、最高裁判決が言うような、著作者の人格的利益が法的保護に値するとされ)たのはなぜなのか、それが今日の社会のあり様とどのように関わっているのかも不法行為法を理解するうえで検討されてよかったのではないかと考えられる。
(荒川英央)
第4節 コメントへのリプライ
2回目についても、荒川氏のコメントは私の授業内容を的確に整理するとともに、いくつかの問題点を剔出している。このコメントを読んで私が改めて考えさせられたのは、次の4点であった。
第一は、船橋市の除籍基準の検討に時間を割いたのはなぜか、ということにかかわる。2回目の授業で、私は船橋市の図書館の除籍基準の検討に時間を費やした。モデレーターが指摘してくれたように、最高裁はこの点には直接に言及していない。それにもかかわらず、除籍基準を話題にした点につき、荒川氏は「『なんでこんなことをしてたのか』。これはこの記録の読者の今の率直な思いかもしれない」と述べている。理由は二つある。一つは、除籍基準という身近な「ルール」の存在理由を考えてもらうこと、もう一つは、この「ルール」を実際を適用することを通じてルールの解釈適用の感触をつかんでもらうこと、である。このような操作を通じて、参加者は問題とされている除籍の恣意性を実感できたのではないかと思う。荒川氏は明言はしていないが、この点を評価して下さったものと理解している。そのことを前提に、第二点に関するコメントがなされていると見られるからである。
第二は、事実からスタートして法命題を立てる、ということにかかわる。荒川氏は「対話プロセスのなかで、今回取り上げられた争いを規律すべきルールを立ち上げる試みが行われた」が、これは「中学生たちが実験的・創造的に法的推論を――追体験的にであれ――経験し、その仕方、そしてその帰結(新しい権利義務の承認)についての理解を深める格好の機会につながったように思われる」と述べている。もっとも、記録を読み直して見ると、「ルールの樹立」を体験できたとして、「事実からスタート」したという感触を参加者が持ち得たかどうかという点については疑問なしとしない。荒川氏も指摘するように、「除籍基準」もまた(契約と同様に)「ルール」であるが、不法行為責任を認めるか否かを決する民法上の「ルール」から見ると、最初のルールは後のルールの適用対象となる「事実」として位置づけられる。この点が必ずしも十分に区別さなかった恨みがある。これは次の第三点ともかかわる。
第三は、義務違反と利益侵害の関係について。参加者は、(除籍基準という)内部のルールに、あるいは(図書館法などの)法律上のルールに違反することが、なぜ除籍図書の著者の利益の侵害に結びつくか、という点につき早い段階から気づいていた。荒川氏も述べるように、第1回における「事実」と「論評」の関係にせよ、第2回における「義務違反」と「利益侵害」の関係にせよ、参加者たちの論理的な思考力は相当高く、適切に問題を指摘することができていることには感嘆する。荒川氏も示唆しているように、具体的な利益侵害・損害発生から出発するのではなく、義務違反に対する否定的な評価から出発して、そこから発生する損害を観念するという思考方法は、しばらく前から、学説にも判例にも見出されるものである。もっとも、こうした考え方に立つからと言って、常に、不法行為責任が肯定されるわけではない。そこで最後の問題が出てくることになる。
最後は、事実上の利益と法的な利益の分かれ目について。荒川氏は次のように述べている。「船橋市の除籍基準によって公立図書館の蔵書となった図書の著作者がもつとされた利益は、事実上の利益であって法的に保護されるべき利益とは言えない。そう評価される可能性があるものと紙一重なものなのではないか、と考えられることにもなりそうだということである」。この点はその通りで、不法行為責任を否定するには、著作者の利益は事実上のものにとどまり法的利益になっているとまでは言えない、と構成することになる。ここでも事実と法の境界の流動性が顔を覗かせることになる。では、何が決め手になって法的責任が肯定されるのだろうか。船橋市西図書館事件では、ルール違反のほかに加害者の行為態様の悪さが大きな影響を及ぼした。より一般化して言うならば、一方では加害者側の事情(①法律違反と②良俗違反の存否・程度)、他方では被害者側の事情(③権利侵害の存否・程度)が勘案されて総合判断されることになる。法学部や法科大学院の授業であれば、ドイツ民法典は①②③を不法行為の三類型としていること、日本のかつての学説においては、①②と③とを相関的に判断するもの(相関関係説や受忍限度論など。過失一元論・違法性一元論でも結局は同様の操作が行われる)が存在すること、などが付言されるところである。
第5節 おわりに―暫定的なまとめ
今回のセミナー記録を通覧して感じたのは、主催者・参加者・記録者ともに相応の成果を挙げているものの、ある難点を克服すればさらに先に進むことができたかもしれないということである。
主催者に着目すると、公共性に関する分節化をさらに進めるべきだったと思う。これは荒川氏が注目した社会観・世界観の問題とも関連する点である。すなわち、第1回において問題になったのは言論空間の公共性であった。そこでは「自由」に大きな価値が置かれていた。これに対して、第2回における公共性は図書館という情報へのアクセスの場における公共性であり、そこでは「平等」に大きな価値が置かれていた。空間の性質と価値、あるいは対抗価値についてより意識的になっていれば、不法行為法が社の基盤としての種々の公共空間を維持する上で、どのような役割を果たしているか・果たすべきかをより明確にすることができたかもしれない。
参加者に着目したときに浮上するのが「人権バイアス」である。荒川氏は「予想されることとはいえ、憲法上の権利・自由のカタログが中学生の思考に対して支配的と言っていいような影響力をもっていたことを挙げておく」としている。名誉毀損にせよ図書廃棄にせよ、「表現の自由」という一語で思考が止まってしまうというわけである。この点は中高生に対して、あるいは大学新入生に対して民法を教える際に留意しなければならない点であるが、高い知的能力を持っている中高校生であっても、このバイアスから逃れるのは難しいことは、荒川氏の言うように「印象に残った点」であった。
記録者はこの点に留意しつつ、「著作者がその思想や意見を伝達する利益の侵害」と「著作物を著した人として認められる人格を損なうような態様での利益侵害」とを区別し、本件で問題になったのはむしろ後者であったのではないかとしている。それ自体は卓見であるが、別のところでは荒川氏は後者を「人格的利益」と呼び、後者と対比している。しかしながら、前者もまた「人格的利益」にほかならない。憲法上の人権と人格的利益を対比するという発想には、ある意味で中高生と通底したものがあるようにも思われる。このあたりは、人格的利益の構造化という問題にかかわる課題であろう。
これらの点については、セミナーをまとめて書籍化する際には、一定の補正を加えたいと思う。
セミナーは第3回・第4回と続いたが、本稿で述べるのはここまでである。現在、私は本稿の対象となっている授業(契約編4回分と不法行為編4回分)に基づく著書を執筆中であるが、前稿・本稿における荒川氏のコメントも、整理の上で同書に収録される。本稿に関心を持って下さった方がおられたら、ぜひ、著書の方もご覧いただきたい。
(大村敦志)