大阪市ヘイトスピーチへの対処に関する条例(平成28年大阪市条例第1号)2条、5条~10条と憲法21条1項
大阪市ヘイトスピーチへの対処に関する条例(平成28年大阪市条例第1号)2条、5条~10条は、憲法21条1項に違反しない。
憲法21条1項、大阪市ヘイトスピーチへの対処に関する条例(平成28年大阪市条例第1号)2条、5条~10条
令和3年(行ツ)第54号 最高裁令和4年2月15日第三小法廷判決
公金支出無効確認等請求事件(民集登載予定) 棄却
原 審:令和2年(行コ)第18号 大阪高裁令和2年11月26日判決(判例集未登載)
第1審:平成29年(行ウ)第161号 大阪地裁令和2年1月17日判決(判例地方自治468号11頁)
1 事案の概要
(1) 大阪市ヘイトスピーチへの対処に関する条例(平成28年大阪市条例第1号。以下「本件条例」という。)2条、5条~10条(以下「本件各規定」という。)は、一定の表現活動をヘイトスピーチと定義した上で、これに該当する表現活動のうち大阪市(以下「市」という。)の区域内で行われたもの等について、市長が当該表現活動に係る表現の内容の拡散を防止するために必要な措置等をとるものとするほか、市長の諮問に応じて表現活動が上記の定義に該当するか否か等について調査審議等をする機関として大阪市ヘイトスピーチ審査会(以下「審査会」という。)を置くこと等を規定している。
(2) 本件は、市の住民であるXらが、本件各規定が憲法21条1項等に違反し、無効であるため、審査会の委員の報酬等に係る支出命令は法令上の根拠を欠き違法であるなどとして、市の執行機関であるYを相手に、地方自治法242条の2第1項4号に基づき、当時市長の職にあった者に対して損害賠償請求をすることを求める住民訴訟である。
2 法令の定め等
(1) 本件条例2条1項は、表現活動の目的、表現の内容、表現活動の態様等の要素により本件条例におけるヘイトスピーチ(以下「条例ヘイトスピーチ」という。)の定義を定めており、その詳細は、判決文中の「理由」第1の2のとおりである。
(2) 本件条例5条1項柱書き本文は、市長は、一定の表現活動が条例ヘイトスピーチに該当すると認めるときは、事案の内容に即して当該表現活動に係る表現の内容の拡散を防止するために必要な措置(以下「拡散防止措置」という。)をとるとともに、当該表現活動が条例ヘイトスピーチに該当する旨、表現の内容の概要及びその拡散を防止するためにとった措置並びに当該表現活動を行ったものの氏名又は名称を公表するものとする旨を規定する(以下、拡散防止措置と併せて「拡散防止措置等」という。)。
(3) 本件条例6条1項は市長による審査会への意見聴取につき、 本件条例7条1項は審査会の設置につき、本件条例8条は審査会の組織や委員の委嘱につき、それぞれ規定する。また、本件条例9条は審査会の調査審議の手続について規定し、本件条例10条は、審査会の組織及び運営並びに調査審議の手続に関し必要な事項を規則に委任している。
(4) 本件条例において、条例ヘイトスピーチを禁止する旨の規定や、これを行った者に対する罰則は存在しない。なお、本件条例は、本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律(平成28年法律第68号。以下「差別的言動解消推進法」という。)に先んじて制定、施行されており、条例ヘイトスピーチの定義によれば、その範囲には、本邦の域外にある国の出身である者等に対する表現活動のみならず、日本人に対する表現活動も含まれる。
3 事実関係等の概要
(1) 公益財団法人人権教育啓発推進センターが平成28年3月に公表した報告書は、いわゆるヘイトスピーチを伴うデモ又は街宣活動を行っていると報道等で指摘される団体の活動を調査した結果、特定の民族等に属する集団を一律に排斥する内容や、同集団に属する者の生命、身体等に危害を加える旨の内容を伴うデモ又は街宣活動は、平成24年4月から平成27年9月までの3年6か月間に、全国において1152件が行われ、その14.2%に相当する164件が大阪府内において行われたとしている。また、上記報告書は、市内では、平成24年6月、平成26年5月、同年9月、平成27年3月及び同年4月に行われたデモ又は街宣活動において、上記のような内容の発言に加えて、特定の民族等に属する集団を蔑称で呼ぶなどして殊更にひぼう中傷する内容の発言が確認されたほか、平成25年4月に大阪市北区梅田で行われた街宣活動において、特定の民族に属する者を殺害することをあおるシュプレヒコールをすることは当然である旨の発言や当該民族が同じ生き物ではない旨の発言があったことが報道されたとしている。
(2) 大阪市人権尊重の社会づくり条例(平成12年大阪市条例第25号)に基づき置かれた大阪市人権施策推進審議会は、市長から諮問を受け、平成27年2月、市内において現実にヘイトスピーチが行われている状況にあり、市は、市民の人権を擁護するために、ヘイトスピーチに対して独自で可能な方策をとることで、ヘイトスピーチは許さないという姿勢を明確に示していくことが必要である旨の答申(以下「本件答申」という。)をした。本件答申は、ヘイトスピーチと認定した事案について、差別の拡散につながらないよう十分に留意しながら、ヘイトスピーチであるという認識、その事案の概要及び講じた措置を公表することが適当であるなどとする一方で、憲法上の表現の自由との関係を考慮し、単なる批判や非難を上記措置等の対象外とし、社会からの排除等を目的とする表現活動にその対象を限定することが適当であるなどとしていた。
(3) 本件条例に係る条例案は、本件答申を受けて、平成27年5月、市会に提出され、その審議を経て、平成28年1月15日、可決成立した。
4 訴訟の経過
第1審判決及び原判決は、いずれも本件各規定が表現の自由を制限するものであるとした上で、本件各規定は憲法21条1項等に違反しないとして、Xらの請求を棄却したため、Xらが上告した。
5 本判決
本判決は、まず、 条例ヘイトスピーチの定義について規定した本件条例2条1項について、①同項1号が、表現活動が人種又は民族に係る特定の属性(以下「民族的属性」という。)を理由として、個人又は集団を社会から排除すること等の不当な目的をもって行われるものであることを要する旨を規定したものであり、②同項2号が、表現の内容及び表現活動の態様について、特に悪質性の高いものであることを要件としたものであり、当該表現活動が、個人若しくは集団をその蔑称で呼ぶなど、個人若しくは集団を相当程度侮蔑し、若しくはひぼう中傷するものであること、又は個人若しくは集団の生命、身体若しくは財産について危害を加える旨を告知するなど、社会通念に照らして、その個人等に脅威を感じさせるものであることを要する旨を規定したものであり、③同項3号は、当該表現活動が、仲間内等の限られた者の間で行われるものではなく、不特定多数の者が表現の内容を知り得る状態に置くような場所又は方法で行われるものであることを要する旨を規定したものであるとの解釈を示した。そして、本判決は、上記解釈を前提とした上で、本件各規定の目的のために制限が必要性とされる程度と、制限される自由の内容及び性質、これに加えられる具体的制限の態様及び程度等を衡量して合憲性を判断するという利益衡量論に依拠し、(ア)同項にいうヘイトスピーチ(条例ヘイトスピーチ)に該当する表現活動は、人種又は民族に係る特定の属性を理由として特定人等を社会から排除すること等の不当な目的をもって公然と行われるものであって、その内容又は態様において、殊更に当該人種若しくは民族に属する者に対する差別の意識、憎悪等を誘発し若しくは助長するようなものであるか、又はその者の生命、身体等に危害を加えるといった犯罪行為を扇動するようなものであるといえるから、これを抑止する必要性が高く、市内においては、実際に上記のような過激で悪質性の高い差別的言動を伴う街宣活動等が頻繁に行われていたことがうかがわれること等をも勘案すると、条例ヘイトスピーチの抑止を図るという本件各規定の目的は合理的であり正当なものということができること、(イ)これにより制限される表現活動は上記のような過激で悪質性の高い差別的言動を伴うものに限られる上、その制限の態様及び程度においても、事後的に市長によるインターネット上の表現の削除要請や表現活動をしたものの氏名又は名称の公表等の措置の対象となるにとどまること、(ウ)市長による要請に従わないものに対する制裁はなく、表現活動をしたものの氏名等を特定するための法的強制力を伴う手段も存在しないこと等から、本件各規定による表現の自由の制限は、合理的で必要やむを得ない限度にとどまるものというべきであり、また、条例ヘイトスピーチの定義を規定した同項等の内容が不明確なものとはいえず、過度に広汎なものともいえないとして、判決要旨のとおり判断し、Xらの上告を棄却した。
6 説明
(1) 住民訴訟において法令の合憲性を争うことの可否
本件は、条例の規定の合憲性が住民訴訟という形式により争われている点に特色があるところ、ある法令の執行の過程で何らかの財務会計行為が行われた場合、当該財務会計行為を行った地方公共団体の住民であれば、常に上記法令の合憲性を争えるのかという点が問題となるとの指摘がされている(毛利透・法学教室476号(2020)127頁)。
この点につき、最大判昭37・3・7民集16巻3号445頁は、大阪府の住民である原告が、市町村警察を廃止しその事務を都道府県警察に移した警察法が憲法92条(地方自治の本旨)に違反し、無効であるなどと主張して、大阪府の警察費予算の支出の差止めを求めた住民訴訟の事案において、警察法が憲法92条に違反するものではないとの判断を示している。行政機関等の設置に関する法令が違憲無効であれば、当該行政機関等の活動に係る公金の支出についても、法律上の根拠を欠くこととなり、違法となるというべきであるから、少なくとも、上記最判のような事案においては、住民訴訟により法令の合憲性を争うことができると考えられる。すなわち、住民訴訟の対象は、地方自治法242条の2第1項、242条1項により、「公金の支出」、「財産の取得、管理若しくは処分」、「契約の締結若しくは履行」、「債務その他の義務の負担」(財務会計行為)又は「公金の賦課若しくは徴収若しくは財産の管理を怠る事実」とされていることから、法令の違憲が個別の財務会計行為の違法を基礎付けるものである限りにおいては、住民訴訟において、当該法令の合憲性を争うことができると解すべきである。他方で、法令の違憲が個別の財務会計行為の違法を基礎付けるものではない場合、当該違憲をいう点は主張自体失当となり、他に当該財務会計行為の違法を基礎付ける主張がなければ、直ちに請求は棄却されることとなると考えられる。
本件においては、Xらが違憲無効と主張している本件各規定のうち、審査会の設置(本件条例7条)、審査会の組織(本件条例8条)等に係る規定が違憲無効であれば、審査会の委員の地位や審査会による手続自体が法令上の根拠を欠くこととなることから、同委員に対する報酬等に係る支出命令の違法が基礎付けられると考えられる。そうすると、本件において、原告らは本件各規定の違憲性を争うことができると考えられ、本判決も上記のような理解を前提としているものと解される。
(2) 表現の内容に着目した規制(以下「表現内容規制」という。)の合憲性審査の枠組み
ア 表現の自由を始めとする精神的自由については、民主政の過程を支える重要な権利とされ、それが不当に制限されている場合には、国民の知る権利が十分に保障されず、民主政の過程そのものが傷つけられているため、裁判所が積極的に介入する必要があり、精神的自由を規制する立法の合憲性を裁判所が厳格に審査しなければならないとされている。そして、特に、表現内容規制については、学説上は、極めて厳格な基準とされる明白かつ現在の危険の基準(①ある行為が近い将来、ある実質的害悪を引き起こす蓋然性が明白であること、②その実質的害悪が極めて重大であり、その重大な害悪の発生が時間的に切迫していること、③当該規制手段が上記害悪を避けるのに必要不可欠であることという三つの要件の存在が立証された場合にはじめて、当該表現を規制することができるとするもの。)により合憲性を審査すべきであると解する立場も有力である。他方で、判例は、未決勾留により拘禁されている者の新聞紙、図書等の閲読の自由の制限が問題となった最大判昭58・6・22・民集37巻5号793頁(以下「昭和58年最判」という。)を始めとして、表現内容規制について、一律の審査基準を定立して合憲性を判断するという手法を採用せず、制限の必要性の程度と、制限される自由の内容及び性質、これに加えられる具体的制限の態様及び程度等を衡量して決するという利益衡量論に依拠した上で、それが無原則、無定量に行われることがないように、事案に応じて、利益衡量を指導するルール(利益衡量の方法)として、学説のいう厳格な審査基準(明白かつ現在の危険の基準、必要最小限度の原則、LRAの基準、漠然性のゆえに無効の法理、過度の広汎性のゆえに無効の法理等)の趣旨を取り入れてきたものということができる。これは、表現内容規制の在り方は様々であることから、一律の基準を定立するのではなく、事案に応じて柔軟に対処していくことを要するとの考え方に基づくものと考えられる(以上につき、伊藤正己『憲法〔新版〕』(弘文堂、1990)225~226頁、千葉勝美・最判解民事篇平成4年度232~233頁、岩崎邦生・最判解刑事篇平成24年度494~495頁)。
そして、従来の判例を概観すると、①規制される自由又は利益につき、保護の必要性が特に高く、制限の程度も重大であるような場合については、明白かつ現在の危険の基準を意識した利益衡量の方法を採用し、②その保護の必要性が低く、当該規制の外縁が比較的明確かつ限定的なものについては、特に利益衡量の方法について具体的に明示せず、③その余のものについては、(ア)明白かつ現在の危険の基準以外の厳格な審査基準を意識した利益衡量の方法を採用し、又は(イ)「禁止目的、これと禁止される政治的行為との関連性、政治的行為を禁止することにより得られる利益と禁止することにより失われる利益の均衡」の3点により合憲性を検討するという合理的関連性の基準によるという傾向を指摘することができると思われる。
例えば、昭和58年最判は、その説示するところによれば、新聞紙、図書等の閲読の自由については、個人の思想及び人格の形成・発展や、民主主義社会における思想及び情報の自由な伝達、交流の確保に資するものであり、かつ、新聞紙、図書等の一部を抹消した場合、当該抹消部分に記載された思想、情報等を認識することが全くできなくなること等を考慮し、「右の制限が許されるためには、当該閲読を許すことにより右の規律及び秩序が害される一般的、抽象的なおそれがあるというだけでは足りず、被拘禁者の性向、行状、監獄内の管理、保安の状況、当該新聞紙、図書等の内容その他の具体的事情のもとにおいて、その閲読を許すことにより監獄内の規律及び秩序の維持上放置することのできない程度の障害が生ずる相当の蓋然性があると認められることが必要であり、かつ、その場合においても、右の制限の程度は、右の障害発生の防止のために必要かつ合理的な範囲にとどまるべきものと解するのが相当である。」として、最も厳格とされる明白かつ現在の危険の基準を意識した利益衡量を行ったものと思われる。他方、最二小判平2・9・28・刑集44巻6号463頁は、政治目的の放火等の扇動等を処罰する破壊活動防止法39条等につき、同扇動等が重大犯罪を引き起こす可能性のある社会的に危険な行為であるとして、特に厳格な審査基準を意識した説示をすることなく合憲の結論を導いているところ、これは、保護される利益が規制される利益を上回ることが明白であることや、規制の外縁が比較的明確かつ限定的であることを踏まえた判断であったためであることがうかがわれる。さらに、最大判昭59・12・12・民集38巻12号1308頁(以下「昭和59年最判」という。)は、当時の関税定率法21条1項3号の規定によるわいせつ表現物の輸入規制の憲法21条1項適合性が問題となった事案において、わいせつ表現物を否定的に評価し、その規制の必要性を前面に据えた説示をする反面、「法律をもって表現の自由を規制するについては、基準の広汎、不明確の故に当該規制が本来憲法上許容されるべき表現にまで及ぼされて表現の自由が不当に制限されるという結果を招くことがないように配慮する必要があり」とも説示している。これは、わいせつ表現物については、制限される自由又は利益の内容及び性質等の点において、昭和58年最判と比べ、衡量すべき価値自体の優劣の判断は容易であることから、明白かつ現在の危険の基準を意識した利益衡量にはよらないこととした反面、制限される自由又は利益の外縁の明確性、限定性の点等からみると、その判断が容易とはいえない側面も否定できず、本来の規制対象として想定される表現を超えて、表現の自由を不当に制限することとならないよう、漠然性のゆえに無効の法理、過度の広汎性のゆえに無効の法理等の厳格な基準を意識した利益衡量を行ったものと考えられる。なお、表現内容規制の憲法21条1項適合性の判断において合理的関連性の基準を用いた当審判例は少数であり、最大判昭49・11・6刑集28巻9号393頁等の公務員の政治的行為を規制対象とした事案に限られている。
イ 次に、判例は、昭和58年最判、昭和59年最判、最二小判平24・12・7・刑集66巻12号1337頁等にみられるように、前記の利益衡量の際に、審査の対象となる規定を合理的に解釈し、その解釈を踏まえて当該規定の合憲性を判断するという手法を採用してきた。この点について、上記最二小判平24・12・7の千葉勝美裁判官の補足意見は、公務員の政治的行為を禁止する国家公務員法102条1項の合憲性が問題となった事案において、まずは対象となっている規定について丁寧な解釈を試みるべきであり、その作業をした上で具体的な合憲性の有無等の審査に進むべきであるとしている。
(3) 本判決について
ア(ア) 本件条例上のヘイトスピーチ(条例ヘイトスピーチ)の定義を規定した本件条例2条1項については、松本和彦「大阪市ヘイトスピーチへの対処に関する条例」(ジュリスト1513号(2017)81頁)によれば、条例ヘイトスピーチが市長による拡散防止措置等の対象となることから、差別的言動解消推進法2条と比較して詳細な定義をしたものであり、①目的の要件、②態様の要件及び③不特定性(公然性)の要件の三つを全て充足することを要するとしたものとされている。そして、前掲書においては、①については、表現の自由との関係を考慮して、単なる批判や非難を対象外とすることを趣旨とするものであり、②については、相当程度の侮辱等をするもの又は個人等に脅威を感じさせるもののいずれかに該当することを要することとすることにより、表現の悪性を審査することとしたものであり、③については、不特定多数の者が表現の内容を知り得る状態に置くような場所又は方法で行われるものであることを要することとすることにより、仲間内に限定された表現活動を除外する趣旨であるとされている。
(イ) しかしながら、本件条例2条1項1号は、問題となる表現が人種又は民族に係る特定の属性(民族的属性)を理由とするものであることを明示せず、民族的属性を有する個人又は当該個人により構成される集団を「特定人等」と定義した上で、特定人等を社会から排除すること(同号ア)、特定人等の権利又は自由を制限すること(同号イ)等を目的とすることを規定しているところ、一般に、民族的属性を有しない個人を想定することはできず、全ての個人がこれに該当することとなるため、「特定人等」の概念を基に規制対象を限定することはできない。そうすると、同号の文言のみからは、民族的属性を理由とするものではない表現活動(例えば、個人の具体的な違法行為の存在を理由に処罰を求める表現活動等)であっても、特定人等の権利又は自由を制限すること目的としているなどという捉え方をすれば、同号に該当するとみる余地があることとなる。また、同項2号は、表現活動の内容及び態様について、「特定人等…に脅威を感じさせるもの」などと規定するにとどまり、その具体的内容又は態様を例示するなどしておらず、その対象とされた個人等に対して主観的な不安感等を与えたことをもって、同号に該当するとの解釈も成り立ち得ないではない。
そこで、本判決は、前記(2)ア及びイでみた判断手法に沿って、まず、憲法判断に先立って、本件各規定のうち、本件条例上のヘイトスピーチ(条例ヘイトスピーチ)の定義を規定した本件条例2条1項につき、解釈を示したものと思われる。
(ウ) 本件条例の制定経緯及び文理に照らせば、本件条例は、表現の自由の保障に配慮しつつ、当時、市内で頻繁に行われていた、特定の民族等に属する集団を一律に排斥する内容、同集団に属する者の生命、身体等に危害を加える旨の内容、同集団をその蔑称で呼ぶなどして殊更にひぼう中傷する内容等の民族的属性を理由とする過激で悪質性の高い差別的言動の抑止を図ることをその趣旨とするものと解すべきである。そうすると、民族的属性を理由とするものではない表現活動が条例ヘイトスピーチに含まれるとの解釈や、表現活動が、その対象とされた個人等に主観的な不安感等を与えることをもって、直ちに条例ヘイトスピーチに該当するとの解釈は、上記趣旨を超えて表現の自由を制約することとなることから、採用し難い。本判決は、以上のような理解の下、本件条例2条1項につき、前記5「本判決」のとおりの解釈を示したものと思われる。
イ(ア) 次に、本件各規定が憲法21条1項に違反するか否かを検討するに当たり、いかなる利益衡量の方法を採るべきかが問題となる。
民族的属性を理由とする差別的言動を伴う表現活動自体は、社会的に許されるものではないことが明らかであり、少なくとも昭和58年最判における閲読の自由等と比肩すべき価値は見いだし難いことから、最も厳格な基準である明白かつ現在の危険の基準を意識した利益衡量を行う必要があるとはいえない。しかしながら、民族的属性に言及する表現活動には、海外の政権等による人権侵害、大量破壊兵器の開発やこれらを支持、支援しているとみられる個人又は団体に対する批判、我が国における出入国管理政策についての議論等の政治的表現との切り分けが困難なものも含まれ得るところである。そして、政治的表現の自由は、民主主義社会に不可欠な表現の自由の根幹を構成するものであることから、本来の規制対象として想定される範囲を超えて、これが不当に制限されることとならないよう細心の注意を払う必要がある。そうすると、本件においては、本件各規定による表現の自由の制限が合理的で必要やむを得ない限度にとどまるものといえるかを吟味するとともに、漠然性のゆえに無効の法理及び過度の広汎性のゆえに無効の法理といった厳格な審査基準を意識した利益衡量を行うことが相当と思われる。
(イ) 本判決は、以上のような理解の下、前記5「本判決」の(ア)~(ウ)の点を考慮した上で、本件各規定が憲法21条1項に反しないとの判断をしたものと思われる。なお、本判決は、本件条例2条1項の文言を限定的に解釈した上で、その解釈を前提に合憲の結論を導いたものであるところ、講学上の合憲限定解釈は、条文に合憲的部分と違憲的部分(違憲の疑いがある部分)が含まれている場合に、違憲的部分を解釈により切り落とす手法とされ、通常の解釈手法(文理解釈・目的論的解釈・体系的解釈等)により違憲の疑いのない意味に解釈し得る場合には、合憲限定解釈と呼ばないとされている(高橋和之『立憲主義と日本国憲法〔第5版〕』(有斐閣、2020)464頁)。本判決は、文言どおりに解釈すると違憲の部分が存在することを示唆する説示をしていないこと等に鑑みると、本件条例の趣旨目的に沿って、文言を合理的に解釈するという通常の解釈手法(目的論的解釈等)によったものであって、合憲限定解釈をしたものではないと思われる。
(4) 本判決の位置付け等
本判決は、近年、社会的に問題となっているヘイトスピーチを抑止することを目的とする条例につき、当審がその憲法適合性を初めて判断したものであり、理論的にも実務的にも重要な意義を有するものと考えられる。なお、本件条例以外にも、ヘイトスピーチを抑止することを目的とする条例が各地で制定されているが、これらの条例は、制限の対象となる表現行為の内容、態様等(当該条例におけるヘイトスピーチの定義)が本件条例と同一ではなく、また、具体的な制限の態様及び程度についても、本件条例と異なり、一定の場合に、氏名又は団体の名称のみならず、その住所も公表の対象とし、更には刑罰を科すこととしているものもあり、これらの条例について、本判決の射程がそのまま及ぶと解することは困難と思われる。