◇SH1828◇インタビュー:一渉外弁護士の歩み(5) 木南直樹(2018/05/11)

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インタビュー:一渉外弁護士の歩み(5)

Vanguard Tokyo法律事務所

弁護士 木 南 直 樹

 

 前回(第4回)は、木南弁護士が、米国の法律事務所のNYオフィスでの研修経験を踏まえて、「ファイナンス・ロイヤーとして生きていく」という明確な意志を持って帰国され、1980年代の政府の施策を背景に、円の国際化が広がる中で、海外向け円建てローンの第1号案件等を手掛けられていくことで、仕事を広げて行かれた経緯をお伺いしました。今回(第5回)は、木南弁護士が、金融法務のプラクティスが順調に発展する中で、事務所の独立を決意した経緯などをお伺いします。

 (聞き手:西田 章)

 

(問)
 クデールのNYオフィスの研修中には、航空機ファイナンスを担当されたとお聞きしましたが、その分野はいかがでしょうか。

  1.    私自身は、航空機ファイナンスに特化したわけではありませんが、日本の税法上のメリットを利用した航空機レバレッジファイナンスの仕事を通じて、英国系大手法律事務所の一つであるフレッシュフィールズの航空機ファイナンスチームから、継続的に依頼を受けるようになりました。私とフレッシュフィールズとの関係はこのころから始まります。

 

(問)
 そこで、後に、合流されることになる、フレッシュフィールズとの接点も出来ていたのですね。また、企業だけでなく、外国法律事務所からも継続的な相談が来る、という話も興味深いです。国内依頼者は、やはり、銀行が中心だったのでしょうか。

  1.    国内の依頼者ということでは銀行、生命保険会社が多かったですね。銀行からは、ローン案件だけでなく、1980年代の後半になると、自己資本調達の問題についても相談を受けるようになりました。当時、欧米の銀行に比べかなり自己資本比率が低かった邦銀が、低金利だった円を梃に国際金融市場でも低利のファイナンスを提供していたことが、欧米の銀行より顰蹙を買うようになり、「ハラキリファイナンス」とも批判されました。そして、1988年には、バーゼル銀行監督委員会は、国際的に活動する銀行の自己資本比率を8%以上に規制する合意(BIS規制)をしました。

 

(問)
 BIS規制は、弁護士業務にも関わるのでしょうか。

  1.    自己資本8%に満たない銀行は、国際的な取引ができなくなりますので、自己資本比率の改善が当時いくつかの邦銀にとっては喫緊の経営課題となりました。そこで、いくつかの邦銀が集まって、優先株等を用いて自己資本比率を上げるためのスキームを検討する勉強会を開きました。国内優先株については、当時の商法に条文数も少なく、発行上いくつかの技術的な難点も指摘されていました。また、発行例も少なく、「優先株を発行しているのは財務状態が思わしくない特殊な会社」と考える風潮もありましたので、自己資本充実のためとはいえ、それを大手銀行が利用するのは適当なのかを含め議論しました。結論としては、まずは海外の特別目的子会社で海外優先株を発行し、調達した資金を親会社である邦銀に回金するスキームを検討することになりました。

 

(問)
 そういう検討をするについては、タイムチャージで報酬を請求できたのでしょうか。

  1.    いえいえ、そういう段階では手弁当で対応しました。タイムチャージができるようになるのは具体的な案件になってからです。ただ、当時の銀行の担当者との間で、資料や論点につき緊密な情報交換や議論をし、とてもよい勉強の機会でした。田中・高橋では、司法修習38期の後藤出弁護士(現在は、シティユーワ法律事務所)が手伝ってくれました。まだ留学前にも関わらず、後藤弁護士が精緻な議論と理論武装を準備してくれたので大変に助かりました。

 

(問)
 その努力が実を結んだのですね。

  1.    当時の大蔵省も、邦銀の苦境を助けるべく、提案のスキームで関係諸外国の金融当局を説得するなどして協力してくれました。そして、私もお手伝いさせていただき、邦銀による海外優先株の第1号案件が実現しました。欧米の金融当局も、渋々だったようですが、そのスキームがTier 1適格であることを認めてくれました。

 

(問)
 当時、日本の法律事務所では、クロスボーダーのバンキング案件を相談できるような競合するプレイヤーは、田中・高橋以外にもいたのでしょうか。

  1.    当時は、まだプレイヤーが少なかったと思います。常に複数案件のドキュメンテーションを抱えているというような状況でした。
  2.    むしろ、同じ田中・高橋にいた渥美博夫弁護士が競合するプレイヤーでしたね。

 

(問)
 渥美博夫先生は、木南先生とは、別々に仕事をされていたのですか。

  1.    はい、すべての分野で競合していたわけではありませんが、渥美弁護士とは、円建てローンの分野では完全に競合していました。それぞれの依頼者である銀行同士が同じ案件を追いかけて、競合する関係にありました。渥美弁護士が留学から戻ってきてからは、円建てローンの分野では、私より多くの件数を受任するようになっていったと記憶しています。

 

(問)
 それだけ確固たる地位を築いていた田中・高橋でも、事務所としてのさらなる発展にはつながらなかったのでしょうか。

  1.    1990年頃に、創設パートナーの一人、田中和彦弁護士が急死したことがひとつの転換点となりました。事務所で吐血され、救急車で病院に運ばれ、その日に亡くなられました。

 

(問)
 木南先生たちの世代がネームパートナーとして加わっていくという展開にはつながらなかったのでしょうか。

  1.    私も、渥美弁護士も、案件は自分たちだけで回していましたが、事務所経営にはあまり発言権はありませんでした。

 

(問)
 仕事自体は順調でも、事務所経営はまた別なのですね。

  1.    プラクティスが伸びているのに、アソシエイトやスタッフの新規採用も決める権限がなく、基本的なチームは、いつまでも自分と外国人弁護士、それに秘書だけという状況でした。とても不自由を感じました。
  2.    所属弁護士にそれぞれの依頼者がいて、独立のチャネルで別々の仕事を依頼されている法律事務所の場合、いつまでも一部のパートナーが経営事項を決めるというスタイルは馴染みません。組織に亀裂が生じるのも時間の問題でした。経営の実態に即した意思決定の仕組みが確立されないまま、まず、渥美博夫弁護士が退所して、他の事務所に移籍しました。その次が、私の独立です。

 

(問)
 木南先生が担当されていた依頼者は、すべて木南先生が開拓されたものだったのでしょうか。

  1.    私は、事務所の古くからの依頼者の国内案件を若干担当していましたが、ほとんどの案件が自分で開拓した渉外案件でした。

 

(問)
 他の事務所に移籍する、という選択肢はなかったのでしょうか。

  1.    私自身は、クロスボーダー案件の取り扱いを中心に考えていたので、この当時、国内企業を対象として企業法務を中心に業容を拡大していた国内事務所に移籍することは念頭にありませんでした。それに、当時はまだ国内の事務所間での移籍が盛んではなかった時代です。欧米系法律事務所からのお誘いもありましたが、まずは、自分で事務所を作りたいと思って独立をしました。

 

(問)
 1995年に木南法律事務所を設立されましたが、どういうメンバーでスタートしたのでしょうか。

  1.    日本人弁護士は私ひとりでスタートしました。田中・高橋時代から、私の仕事を専従で手伝ってくれていた外国人弁護士は合流してくれました。あとはスタッフ4人です。

 

(問)
 弁護士も採用されたのでしょうか。

  1.    翌1996年4月に新人弁護士を採用しました。また、外国人弁護士もさらに1人採用しました。

 

(問)
 独立しても、依頼者はついてきてくれたのでしょうか。

  1.    はい、ありがたいことに、依頼者はほとんど全社ついてきてくれました。ただ、日本法弁護士がひとりになったために、「木南法律事務所のオピニオンだけでは足りない」と言う外資系金融機関もありました。そのため、親しい同期の弁護士が当時マネジング・パートナーを務めていた大手四大法律事務所の1つにバックアップのオピニオンを依頼したこともありました。
  2.    その他、仕事では、同期で実務修習が一緒で、フレッシュフィールズから現在の事務所まで同僚である、岡田和樹弁護士(当時は自分の事務所を運営していた)にもよく案件を手伝ってもらっていました。研修所の同じクラスで、その後に裁判官になった女性弁護士に仕事を依頼したこともありました。

 

(問)
 外部の弁護士との連携も進められたようですが、木南法律事務所としての自前の採用はどうだったのでしょうか。

  1.    できたての小さな事務所です。自分と新人弁護士、それに外人弁護士という陣容では、弁護士の採用はなかなか難しかったですね。その難しさをすぐに実感するようになりました。

 

(問)
 田中・高橋のときよりも、弁護士の採用は難しくなったのでしょうか。

  1.    難しかったと思います。私が最初のアソシエイトとして採用された田中・高橋の場合、田中・高橋両先生と私とは11期しか離れていません。お二人はまだ若かったですね。取扱業務分野も訴訟あり、コーポレートあり、金融ありで多様でした。私の後もそれほど期を空けずにアソシエイトを採用したことも、事務所の「勢い」という意味で、重要だったと思います。それに、やはりクデール・ブラザーズと提携していたことは渉外弁護士を目指す若い弁護士には魅力だったでしょう。
  2.    振り返って考えれば、独立後の木南法律事務所は、業務分野は、多少コーポレートはあったものの、ファイナンスに偏っており、入所を考える弁護士にとっては自分の進む分野が限定されてしまうようで、発展性のある将来像を描けるようなプラットフォームではなかったと思います。

 

(問)
 新人弁護士は採用できたのですよね。

  1.    独立後仕事の相談にも乗ってもらっていた同じクラスの前述の女性弁護士が当時研修所の教官でもあり、その紹介を受け、48期の新人弁護士を採用することができました。当時、私は40歳代後半で、採用した新人弁護士との期の差は21期ありました。ただでさえ、法律事務所で人材を採用し、育てるには長い時間を要します。渉外業務では英語を使って仕事をする分さらに長くかかります。それを考えた時に、このままの状態で、10年、15年と仕事を続けても、自分が考えているようなプラットフォームを作ることができるかどうかについて少々不安を感じるようになっていきました。

 

(問)
 そんな時に、フレッシュフィールズから誘いがあったのですか。

  1.    改正外弁法が、1995年1月に施行されて、外国法事務弁護士との特定共同事業が許されるようになりました。ただ、実例が出始めるのはもう少し後のことです。私の場合、木南法律事務所を設立した翌年、1996年後半に、当時東京に英国法の外弁事務所を持っていたフレッシュフィールズから、「特定共同事業」を一緒にやらないかという提案を受けました。

(続く)

 

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