◇SH0269◇銀行員30年、弁護士20年 第14回「スイス外債の発行」 浜中善彦(2015/03/27)

法学教育そのほか未分類

銀行員30年、弁護士20年

第14回 スイス外債の発行

 

弁護士 浜 中 善 彦

 

 40歳になる少し前、昭和53年(1978年)だったと記憶するが、6回目の転勤で福山支店の次長(副支店長)になった。初めての地方転勤であった。地方とはいっても、高校が福山だったので、友人知人も多く、地方という感じはなかった。
 当時の支店長は、小長峯男支店長であった。小長支店長は昭和32年入行なので、私より7歳年上だったことになる。小長支店長は、田中角栄首相の時、地方大学(岡山大学)出身者として初の通産省事務次官を務めた小長啓一氏の弟さんである。小長支店長時代、富士銀行100周年の業績目標全種目達成のほか、銀行として初めてスイス外債発行を実現できた。私にとって、最も楽しく充実した銀行員時代であった。
 

 30年以上前のことなので、正確な発行年月も金額も忘れたが、福山通運に提案したスイス外債の成功が、私の銀行員生活の中では最も大きな仕事であり、忘れられない事件である。
 当時、福山では、日本鋼管の主力工場である福山製鉄所が最大の企業であったが、本社は東京であり、富士銀行は同社の主取引銀行であったが、銀行取引は本店取引であり、福山支店とは融資関係はなく、預金取引だけであった。地元福山に本社のある上場企業では、福山通運が最大の企業であり、主力銀行は三菱銀行であり、富士銀行は下位取引先、いわゆる付合い先にすぎなかった。
 

 当時、富士銀行では法人渉外室が創設され、その重点工作先に福山通運が選ばれて、スイス外債発行工作を指示された。当時は資金タイトな時代であり、国内社債市場は公募債といっても、実際は主取引銀行を幹事とする協調融資の変形にすぎず、実質は縁故募集であった。そのため、外債の発行が盛んに行われていた。それも、規制が比較的緩やかなスイス外債が最も多かった。
 しかし、当時、証券取引法65条により、銀行と証券会社の業務は明確に分離されており、銀行の証券発行業務は認められていなかったから、銀行による債券発行事例は、国内は当然としても海外でも例がなかった。そのため、富士銀行の提案した同社に対する外債発行提案には、同社の幹事証券である山一證券と主取引銀行の三菱銀行の猛烈な巻き返し工作があったが、澁谷社長は、全く動ずることなく富士銀行に任せてくれた。
 

 ところが、発行直前になり、急激な円安が進行したので、予定通り発行するかどうかが問題になった。そのため、法人渉外室の執行次長に同道して、澁谷社長の意見を聞きに行った。
 澁谷社長は、躊躇することなく、予定通り発行してくださいといって次のようにいわれた。私は、日本の経済は今後も成長して、将来必ず円高になると確信しています。予定通り発行してくださいと。驚くべき慧眼であり、その時の明解な回答は今でも忘れられない。銀行による外債発行の成功は、富士銀行だけではなく、銀行、証券にとっても初の事例であったので、できたばかりの法人渉外室でも成功事例として行内通達でたびたび採り上げられた。私にとっては、一番の大仕事であったと同時に、今でも、迷うことなく予定通り発行してくださいといわれたときの澁谷社長を忘れられない。
 
以上
 
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