◇SH0271◇銀行員30年、弁護士20年 第15回「福山通運、澁谷昇社長のこと」 浜中善彦(2015/03/31)

法学教育そのほか未分類

銀行員30年、弁護士20年

第15回 福山通運、澁谷昇社長のこと

 

弁護士 浜 中 善 彦

 福山通運の創業者社長澁谷昇氏は、銀行員生活だけではなく、弁護士生活を通じてもこれだけ強烈な個性を持った魅力的な人に会ったことはない。澁谷社長は干支が私と同じ辰年であったから、36歳年上の1904年生まれである。私が親しくお付き合いさせていただいた福山支店時代、社長はちょうど今の私の年齢(75歳)に近かったことになる。

 社長は地元の比較的裕福な名門出身と誰かに聞いたことがあるが、幼少のころ家が没落したため、尋常小学校しか出ていないということであった。スイス外債発行の時、契約書に英文でサインしてもらうとき、ローマ字でSHIBUYA NOBORUと書いて、それを見てサインしてもらったが、やっと字になっている感じであった。また、会社で新聞を読んでおられるときのことであるが、唇を動かしながら読んでおられた。

 そうではあったが、仕事についてはまことに明解で、徹底した合理主義者であると同時に、生活は極めて質素であった。あるときたまたまお昼に伺ったら、社長は社長席で昼食中であったが、アルミのお盆にのったどんぶり飯であった。後で知ったのであるが、お昼はいつも社員と同じ社員食堂の食事をされるということであった。社長席と書いたが、当時の福山通運本社は、木造2階建ての古い中学校の校舎のようで、社長席はその2階の窓を背にしたところにあった。社長席の机も粗末なもので、常務以下役員も経理課課員も同じフロアで執務しており、社長室や会議室などなかった。

 二、三度ご自宅に招かれて、直接お話を伺う機会があった。
 その折、社長は役員報酬もとっていないと聞いていたので、直接ご本人に伺ったことがあるが、その通りだった。また、接待もしない代わりに、受けるということも一切しないと聞いていたので、その点についても訊いたことがある。そのとおりであった。時間と金を無駄にするばかりか、健康にも悪いことはしないというのがその理由であった。
 あるときのことであった。あんたは夜中に目が覚めて、ああ寂しいのうと思ったことはにゃあかと聞かれた。あまりに突然のことで驚いたが、正直に、私はまだそういう経験がありませんと答えた。社長は、ただ、そうかとしか答えられなかった。社長にはお子さんがいらっしゃらなかった。それだけではなく、事業家としては申し分のない成功をおさめられたが、心を許して話し合える人がいなかったから、そういうことを仰ったのだろうかと、今にして思うのである。

 お会いすると、いつもオーラが出ており、圧倒的な存在感であった。これまでの生涯でお会いした多くの人たちのなかでも、これだけ強烈な個性の持ち主はいない。
 地元の人の話では、福山通運の創業は40歳を過ぎてからで、それまではリヤカーを引いて商売をしていたということであった。30年ほどの間にあれだけの会社にしたのであるから、かなり無理な商売の仕方もあったのかもしれない。それと同時に、地元では、社長と直接話をした人が少ないこともあり、福山では毀誉褒貶相半ばするという感じであった。しかし、私の知る澁谷社長は、シャイでナイーブな、きわめて魅力的な人だった。
 澁谷社長から学んだことは多いが、人を評価するとき、地位やお金のあるなしではなく、一人の人間として見るということ、お金で幸福は買えないばかりか、ありすぎるとないのも同じだということがある。

以上

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