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本件は、Aが作成した自筆証書(本件遺言書)による遺言(本件遺言)ついて、Aの長女であるXが、Aが故意に本件遺言書を破棄したことにより本件遺言を撤回したものとみなされると主張して、Aの長男であるYに対し、本件遺言が無効であることの確認を求める事案である。本件遺言書には、Aによって、その文面全体の左上から右下にかけて赤色ボールペンで1本の斜線(本件斜線)が引かれており、これが民法1024条前段にいう「故意に遺言書を破棄したとき」に該当し、本件遺言が撤回したものとみなされるか否かが争点となった。
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事実関係の概要は次のとおりである。
(1) Aは、昭和61年6月、罫線が印刷された1枚の用紙に同人の遺産の大半をYに相続させる内容の本件遺言の全文、日付及び氏名を自書し、氏名の末尾に同人の印を押して、本件遺言書を作成した。
(2) Aは、平成14年5月に死亡し、その後、自宅に隣接するAの経営する医院内にあった麻薬保管金庫から本件遺言書及びそれが入った封筒が発見された。これらが発見された時点で既に当該封筒の上部が切られ、本件遺言書には本件斜線が引かれていた。なお、本件遺言書及び上記封筒を上記金庫内に入れた人物はA以外に考えられないことから、本件斜線はAが故意に引いたものと認められる。
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原審は、上記事実関係の下において、本件斜線が引かれた後も本件遺言書の元の文字が判読できる状態である以上、本件遺言書に故意に本件斜線を引く行為は、民法1024条前段により遺言を撤回したものとみなされる「故意に遺言書を破棄したとき」には該当しないとして、Xの請求を棄却すべきものとした。
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これに対し、本判決は、判決要旨のとおり判示して、原判決を破棄し、原々審判決を取り消し、Xの請求を認容した。
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(1) 民法1024条前段は、遺言者が故意に遺言書を破棄した場合に、その破棄した部分について遺言の撤回があったものとみなす旨の規定である。いかなる場合に、民法1024条前段にいう「遺言書の破棄」があったといえるかについて、公表されている裁判例でこれについて判示したものは見当たらないが、学説は、「遺言書の破棄」とは、遺言書の焼却、切断等といった遺言書の形状自体を破壊する行為のみならず、文面を抹消する行為も含まれると解している。
(2) ところで、民法968条2項は、自筆証書等の遺言書の加除その他の変更について厳格な方式を定めており、通説的見解によれば、この方式に違反した変更がされた場合に、そのような変更のみが無効となり、変更前の遺言が方式を満たしている限り、当該遺言は変更前の内容のものとして有効に成立するとされている。
(3) そうすると、遺言書中の文字を抹消する行為が、民法1024条前段の「遺言書の破棄」と同法968条2項の「変更」とのいずれに当たるのかを判断する基準が必要となる。
公表されている裁判例でこの点について判示したものは見当たらないが、通説的見解は、元の文字を判読できる程度の抹消であれば、「遺言書の破棄」ではなく、「変更」であり、民法968条2項の方式に従っていない限り、「変更」としての効力は認められず、元の文字が効力を有すると解している(穗積重遠『相続法(第二分冊)』(岩波書店、1947)377頁、我妻榮=立石芳枝『親族法・相続法』(日本評論社、1952)626頁、中川善之助=加藤永一編『新版注釈民法(28)〔補訂版〕』(有斐閣、2002)413頁〔山本正憲〕等)。
これに対し、基本は通説的見解によりつつも、①遺言者の署名が二本棒で消してあるような場合には「遺言書の破棄」となるとする説(中川善之助=泉久雄『相続法〔第4版〕』(有斐閣、2000)640~641頁〔泉久雄〕)、②記載を欠くと直ちに遺言書の方式不備を生ぜしめるものの抹消、具体的には、署名のみならず、押印や日付の抹消についても「遺言書の破棄」となるとする説(久貴忠彦「判批」法時48巻11号(1976)191頁)、③元の文字が判読できる状態であっても、全体が塗抹されたり斜線で消されたりした遺言書は、それが遺言者によって故意にされたものであるならば、「変更」の方式に則していなくても、「遺言書の破棄」となるとする説(伊藤昌司『相続法』(有斐閣、2002)67~68頁)などがある。
(4) 通説的見解によれば、本件遺言書に本件斜線を引く行為は、元の文字が判読できる程度の抹消であるから、「遺言書の破棄」ではなく、「変更」に当たり、民法968条2項の方式に従っていない以上、「変更」の効力は認められず、本件遺言は元の文面のものとして有効であるということになりそうであり、原審はこのような判断経過をたどって、本件遺言を有効なものと判断したと考えられる。
(5) しかし、本件のように遺言者が故意に赤いボールペンで遺言書の文面全体に斜線を引く行為は、通常は、その行為の有する一般的な意味に照らして、その遺言書全体をもはや遺言書として使わないという意思の表れとみるのが相当であると考えられる。また、民法968条2項は、その趣旨・文言に照らして、遺言書の一部の変更(一部の抹消)を念頭に置いていると解され、遺言書の文面全体の抹消の場合にまで同項の規律を及ぼすべき必要性、相当性はないように思われる。
(6) 本判決は、以上のような点を踏まえ、遺言者が故意に遺言書の文面全体に斜線を引くといったように、その行為の一般的な意味に照らして、上記遺言書の全体を不要のものとし、そこに記載された遺言の全ての効力を失わせる意思の表れとみるのが相当であるときには、斜線を引いた後に元の文字が判読できても、もはや民法968条2項の規律は及ばないとの前提に立ち、そのような文面全体に故意に斜線を引く行為が、民法1024条前段所定の「故意に遺言書を破棄したとき」に該当し、これにより遺言者が遺言を撤回したものとみなされると判示したものとみられ、上記(3)の③説に近い考え方を採ったものと評価できるように思われる。
なお、本判決の判示に照らすと、先に紹介した通説的見解の射程を一部修正したものであると考えられるから、遺言書の一部の抹消にとどまる場合で、抹消後に元の文字が判読できるときは、民法968条2項の規律が及び、同項の方式を遵守していない限り、抹消としての効力が認められないことになるのではないかと思われる。
また、自筆証書遺言の抹消に関しては、色々な応用事例が想定され得るところ、本判決の射程がどこまで及ぶかについては、遺言の方式や効力に関する条文との抵触の有無等を十分に検討する必要があると思われる。