シンガポール:退職後の競業避止義務の有効性
長島・大野・常松法律事務所
弁護士 松 本 岳 人
はじめに
シンガポールの日系企業とその元従業員との間の競業避止に関する紛争について、近時、シンガポール高等裁判所において退職後2年間の競業避止義務を有効とする判決が下された。[1] シンガポールは人材の流動性が高いことから、退職後の同業他社への就職や競業事業の開業を制限したいと考える使用者は多いものの、日本と同様シンガポールの裁判所においてもその有効性は限定的に解釈されており、雇用契約で競業を制限したとしても、その有効性については疑義がある場面も少なくない。本件裁判例は、競業避止義務の範囲を精緻に分析した上で判断を下しており、シンガポールにおける競業避止義務の有効性を考えるに当たって参考になると思われるため、紹介することとする。
1. 事案の概要
日本の商社のシンガポール子会社である被告の元従業員である原告が、被告を退職後、被告と競業する事業に関与していたことから、被告は雇用契約違反を理由に原告に対する退職手当を支払わなかったところ、原告が被告に対してその支払いを求める訴えを提起したのが本件訴訟である。被告は、競業避止義務に違反するため退職手当の支払義務がないことを争うとともに、競業の差止めを求める反訴を提起した。
2. 論点
訴訟全体の論点は多岐にわたるが、主な論点は退職後の競業避止義務の有効性である。原告と被告との間の雇用契約には、従業員は雇用期間及び雇用終了後2年間、一定の商品又はサービスに関し、制限地域内で原告及びその関係会社と競業する会社の従業員となること、競業する事業に関与すること等を禁止する旨の競業避止義務が規定されており、訴訟では主に、(1)競業避止義務を通じて被告を保護すべき正当な利益が存在するか、及び(2)競業避止義務の範囲が合理的なものであるかの2点が争われた。
3. 裁判所の判断
(1) 被告の正当な利益
裁判所は、原告が関与していた被告のセメント取引の事業は顧客との関係構築能力に大きく左右されるところ、原告の知識及び影響力を前提とすると、顧客を被告から原告自身又は新たな使用者に容易に転換できてしまう点に鑑み、被告には取引関係を保護するために原告に競業避止義務を課す正当な利益があると判断した。
(2) 競業避止義務の範囲の合理性
裁判所は、競業避止義務が有効であるためには、その制限が両当事者の利益のために合理的であり、かつ公共の利益の観点からも合理的であることが必要であるとした。また、その合理性の判断に当たっては、①事業範囲、②地理的範囲及び③時間的範囲の3つの範囲に区分し、それぞれ合理的な範囲のものである必要があるとの判断枠組みを示した。そして、以下のとおり、いずれの範囲についても合理性を肯定した。
- ① 事業範囲
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裁判所は、制限の範囲が原告の退職前12か月以内に関与した一定の制限商品又は制限サービスに関する取引に限られていること、原告が他の事業で生計をたてることを阻害するものではないことなどから、事業範囲の制限の合理性を肯定した。その判断に当たっては、原告は被告に在職中、セメント取引以外に、木材の取引などの経験も積んでおり、退職後も石炭の取引事業を行っていたことなども考慮されている。また、原告がセメント取引に従事することが禁止されたとしても、他に取引をする相手方の選択肢があることから、公共の利益を害するものでもないと判断された。
- ② 地理的範囲
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裁判所は、制限の範囲が原告の退職前12か月以内に関与した取引が行われた国に限られており、本件では原告が現実かつ重要な顧客との連絡先を有している国の範囲に限られるものと判断し、地理的範囲の制限の合理性を肯定した。また、原告が制限された国でセメント取引に従事できないとしても競争に悪影響を及ぼさないため公共の利益を害するものでもないと判断した。
- ③ 時間的範囲
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裁判所は、原告が被告に在籍中に顧客との取引関係を構築するのに4年を要したこと、セメント製品のトレーディングという専門性の高い分野であることなどから、退職後2年間とする時間的範囲の制限の合理性を肯定した。
おわりに
シンガポールにおいては、使用者を保護すべき正当な利益があり、かつその制限が当事者及び公共の利益の観点から合理的なものであることを使用者が立証できなければ、競業避止義務は執行できないと考えられている。本件裁判例も過去の判例を引用した上で同様の判断枠組みを示していることから、従来の考え方自体を大きく変えるものではないと考えられる。しかしながら、競業避止義務が無効と判断される例が多い中、有効性が認められた例として、本件裁判例は実務上参考になると考えられる。もっとも、競業避止義務の有効性について、具体的かつ明確な基準があるわけではなく、個別事例ごとの判断であることから、今後も雇用契約や就業規則に競業避止義務を定める際には、本件裁判例の時間的範囲が2年であったというような結論部分にのみ着目することなく、裁判所の判断枠組みを踏まえた総合的な検討が必要となる点には留意しなければならない。
以上