シンガポール:仲裁合意の準拠法
長島・大野・常松法律事務所
弁護士 青 木 大
仲裁において問題となる準拠法は以下の3つがある。
① 実体準拠法
② 仲裁手続準拠法
③ 仲裁合意の準拠法
①の実体準拠法は紛争の実体面の判断に際して適用される法であり、契約で規定されている「準拠法」は通常これに当たる。②の仲裁手続準拠法は、通常は仲裁地として指定された場所で適用ある仲裁法(シンガポールが仲裁地として指定されていれば、シンガポールの仲裁法)が該当する。実体準拠法と仲裁地法が一致する場合もあるが、これが異なることも決して稀ではない(例えば、日本とインドネシアの当事者間の契約で、実体準拠法をインドネシア法、仲裁地をシンガポールとしている場合など)。
これに対し、③の仲裁合意の準拠法とは、仲裁合意自体の有効性やその効力の範囲等を判断する際に適用される法のことである。明示の合意があればそれに従うのが通常だが、明示的の合意がない場合で特に①実体準拠法と②仲裁手続準拠法が異なるときに、そのいずれが適用されるべきかについては、世界的に確立した考え方は存在していない。
1 英国の場合
この問題に関し、英国においては、Sulamérica Cia Nacional De Seguros S.A. and others v Enesa Engenharia S.A [2012] EWCA Civ 638 (以下「Sulamérica」という。)という判例が存在する。同判例は仲裁合意の準拠法の判断に当たり①当事者の明示の合意、②当事者の黙示の合意、③最密接関連地の法という3段階のテストを用いる。そして、②の黙示の合意の認定に当たっては、仮に実体準拠法の明示の合意が存在した場合には、当該実体準拠法が仲裁合意の準拠法でもあることの(反証可能な)推定をもたらすとする。すなわち、仮に実体準拠法の合意と仲裁地の合意があり、かつ、実体準拠法と仲裁地法が異なる場合には、仲裁合意の準拠法としては原則として実体準拠法が優先されるという帰結になる。
ただし、同判例においては、実体準拠法としてブラジル法が定められていたところ、ブラジル法に基づいて仲裁合意を判断した場合、仲裁合意が無効となる可能性があるという事情があった。そのような事情に鑑み、裁判所は実体準拠法が仲裁合意の準拠法とする推定を覆し、結局③最密接関連地の法として仲裁地の法である英国法が仲裁合意の準拠法であると判示した。
このように、Sulaméricaは、実体準拠法を原則とするものの、仲裁合意が無効となるおそれがあるような場合には比較的寛容に例外を認めているものと解され、仲裁合意の有効性をなるべく尊重しようとするスタンスを示すものと捉えられるように思われる。
2 シンガポールの場合
シンガポールでの立場は従前必ずしも明らかではなかったが、昨年(2014年6月19日)、FirstLink Investments Corp Ltd v GT Payment Pte Ltd and others, [2014] SGHCR 12という裁判例が出された。同裁判例の事実背景は省略するが、同裁判例は、Sulaméricaの判断枠組みから離れた判断を行ったものとして注目を浴びた。すなわち、同裁判例は、上記Sulaméricaの②黙示の合意の認定手法に疑問を呈し、合意された実体準拠法と仲裁地の法が異なる場合は、原則として仲裁地の法が優先されるべきであるという立場を示したのである。
なお、同裁判例は裁判官ではなく書記官的立場であるAssistant Registrarによる判断であり(シンガポールにおいては一定の手続的事項についてはAssistant Registrarによる判断が認められている)、その先例的意義は限定的である可能性がある。またシンガポールの仲裁実務家の中からは、Sulaméricaの判断枠組みによっても事案の結論に違いは生じなかったはずと考えられるが、なぜ英国の判断枠組みから離れる規範をあえて示したのかについては疑問の声も聞かれた。ただ、紛争が顕在化した時点では契約準拠法よりも中立を志向して選択された紛争解決手続に関係する仲裁地の法が優先されるというのが当事者意図と捉えるのが自然とするその判示理由には、学説上は従来から主張されてきていたところでもあるが、一定の説得力がある。
3 他のアジアコモンロー諸国の場合
いずれにせよ、同裁判例は、この古くて新しい仲裁合意の準拠法という問題に、世界の仲裁実務家の目を再び向けさせる効果を一定程度もたらした。同裁判例が出てほどない2014年8月1日、香港の仲裁機関であるHKIACは、当事者に仲裁合意の準拠法を契約上明記することを勧告するプレスリリースを発表した。
同プレスリリースでも指摘されているとおり、この問題は他のアジアのコモンロー諸国でも判断が分かれている。
例えば、インド最高裁判決(National Thermal Power … vs Singer Company And Ors on 7 May, 1992)によれば、実体準拠法が明記されていれば例外的状況がない限りそれが仲裁合意の準拠法となるが、実体準拠法の明示の規定がない場合、仲裁地の法が仲裁合意の準拠法となる反証可能な推定が働くとされる。この判断枠組みは、Sulaméricaよりも明示の実体準拠法が優先される可能性が高いことを示唆するもののようにも思われる。
香港においてもKlöckner Pentaplast Gmbh & Co Kg v Advance Technology (H.K.) Company Limited, 14/07/2011, HCA1526/2010という事案が存在する。同事案では、実体準拠法としてドイツ法、仲裁地を上海とするICC仲裁規則に基づく仲裁合意が規定されていた。香港裁判所は、仲裁合意の準拠法は実体準拠法を含めた諸般の事情を勘案して決するとし、①契約書の準拠法規定の文言、②仲裁合意条項が3人目の仲裁人をドイツの法律家と指定していること、③準拠法と仲裁合意の規定が同一の条項において規定されている点に鑑み、ドイツ法を仲裁合意の準拠法とする黙示の合意が存在すると認定した。Sulaméricaとは異なる判断枠組みにより、実体準拠法のみならず諸般の事情から実体準拠法を仲裁合意の準拠法とする結論を導いたものであるが、これは、Sulamérica以前の判例のようであり、現時点では香港はSulaméricaの判断枠組みを踏襲する可能性もある。なお、仮に仲裁地の法(中国法)によった場合、本件仲裁合意は仲裁機関を明示的に指定していないため、仲裁合意が無効となってしまうという点を傍論として触れている点も興味深い。
他方、マレーシアにおいては、シンガポールと同様、仲裁地の法が仲裁合意の準拠法となると判示した判例が近時報告されている(Government of the Lao People’s Democratic Republic v Thai-Lao Lignite Co Ltd [2013] 3 MLJ 409)。同事案においては、実体準拠法がNY法、仲裁地がクアラルンプールであったが、ある契約における仲裁合意の対象者の範囲(契約に署名していない者が仲裁合意に拘束されるか)が一つの争点となった。仲裁においては、実体準拠法であるNY法のThird Party Beneficiaryの法理に基づき、非署名者についても仲裁合意の範疇に含まれることが認められた。ところが、マレーシアにおいて仲裁判断取消訴訟が提起され、マレーシア裁判所は、仲裁合意の準拠法は仲裁地法であるマレーシア法であり、マレーシア法のもとにおいては非署名者を仲裁合意に拘束する法理は存在しないという理由で、仲裁判断が取り消されたという。
4 検討
仲裁合意の準拠法は、問題設定自体はシンプルでありながら、時として重大な結論の差異をもたらす難しさをはらんでいる。この点、ロンドンの仲裁機関であるLCIAは、2014年10月1日発効の改正仲裁規則16.4条において、仲裁合意の準拠法は仲裁地の法とすることを規定するという新たなアプローチを提示した。ICCやSIACは、まだこの問題に対して特段の対応を示していない。
仲裁合意の準拠法の問題にどのように対処するかは未だ発展途上の課題ではあるが、実際のところ各仲裁機関のモデル仲裁条項を用いている限りにおいて、仲裁合意の準拠法如何でその有効性が大きく左右されるような事態はそれほど生じにくいようにも思われる。仲裁法上、有効な仲裁合意には仲裁機関の指定が必要とする中国は特別であるが、中国に関連する事案については別個のモデル条項を用意している仲裁機関も多い。したがって、当事者からみれば、各仲裁機関のモデル仲裁条項を用いている限り、それほど懸念する必要もないかもしれない(ICCやSIACが様子見なのもそのような事情によるものかもしれない)。
しかし交渉の過程で多少なりともモデル仲裁条項と離れる文言を用いる場合には、何らかの理由をつけて相手方が仲裁合意の有効性やその内容を争ってくる可能性も意識しておく必要があり、その際には、仲裁合意の準拠法を念のため明示的に規定しておくことが十分考慮に値する。