◇SH0424◇銀行員30年、弁護士20年 第60回「年をとるということ」〈完〉 浜中善彦(2015/09/15)

法学教育そのほか未分類

銀行員30年、弁護士20年

第60回 年をとるということ〈完〉

弁護士 浜 中 善 彦

 

 今年の4月で75歳になった。後期高齢者である。後期高齢者については、ネーミングが悪いということで一時話題になったが、ネーミングはさておき、なってみると、同じく高齢者であっても区別されるのには理由があると思わざるを得ない。65歳になったときは、高齢者というほどの実感もなかったが、後期高齢者の場合はこれまでと違って妙にその実感がある。と同時に、50年という年月も、去ってみるとあっという間だったという気がする。

 

 その間3回もガンを経験し、近時では、一昨年脊柱管狭窄症の手術をし、昨年膿胸(胸と肺の間に膿がたまる病気)で20日間ほど入院した。その結果、筋力が弱ったこともあって、未だに歩くと足腰が痛く、10分も続けて歩くのが困難になった。白内障の手術は3年ほど前にして、従来に比べて視界は明るくなったが、現在は、長くパソコンを見ていると目がかすむようになった。こういった肉体的な衰えを日々実感するようになると、改めて年をとるということはこういうことかと実感せざるを得ない。

 

 若い頃は頭ではみんな年をとるということは分かってはいても、自分が年をとるということは実感がなかった。その頃は、年寄りは昔から年寄りであり、年寄りに若い頃があったというのは想像もしなかったし、できなかった。しかし、現実に自分が後期高齢者になってみると、なるほど年をとるということはこういうことかといろいろと考えさせられる。肉体的、精神的、そして客観的にも確かに老人だろうと思うのであるが、主観的にはあまりその実感がない。以前は銀行のOB会で先輩たちが病気の話ばかりしているのが不思議であったが、今になってみるとよく分かる。定年後は、仕事の話はないから、共通の話題といえば病気位しかなくなるのである。たいていはガンを経験したり、軽い脳梗塞をしたりしているので、お互い、それぞれが体の悩みを抱えていることを知ることで、妙に安心したり、ある種の連帯感を覚えるのである。

 

 年をとると、肉体的に衰えるだけではなく、精神的にも消極的になる。私は、5年前にトルコ旅行をしてから、その後海外へ行ったことがない。またヨーロッパへ行きたいと思うことはあるが、今ひとつ自信がない。
 そういうと、年をとることはマイナスばかりかのようであるが、必ずしもそうではない。キケローのひそみに倣うのではないが、年をとって初めて理解できることもある。10年ほど前の65歳頃のことだったと思うが、修習同期の弁護士今村武彦先生に「私は、年をとって初めて、これまで理解できなかったことや人の気持ちが分かるような気がするようになりました。」と申し上げたところ、「そうだろう君、だから年をとるのは楽しいことなんだ!」といわれた。今村先生は3年ほど前に亡くなられたが、私より一回り年上で、たまたま司法修習の2回試験(卒業試験)のとき隣り合わせになり、それ以来親しくしていただいた。先生は、東大法学部を卒業する時、大蔵省と東レに就職が内定していたそうであるが、東レへ入社され、副社長、副会長、相談役を務められた。サラリーマンとしては頂点を極められた方といっていいが、若輩者の私にも、分け隔てなく付き合って下さった。毎月のようにご馳走になり、毎回楽しかった。毎回何を話したのか記憶にないが、年をとるのは楽しいことなんだと言われたことだけは鮮明に覚えている。今でも折に触れて、先生のことをこの言葉と一緒に思い出す。とともに、そうありたいと思う。

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